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高槻城公園の整備計画をご紹介します

ページID:004419 更新日:2022年3月22日更新 印刷ページ表示

高槻城と高槻城公園

高槻城の絵図

高槻城は、南北朝期の入江氏の居館に始まり、1569年に和田惟政が城としての基礎を固め、1573年に高山右近が町屋を城内に取り込んで堅固な城郭を築きました。江戸時代、北摂唯一の城郭として重要な役割を果たした高槻城は、大坂夏の陣ののち1617 年、江戸幕府による直営改修工事が行われ、近世城郭が形成されました。1636年には岡部宣勝が高槻城主となり出丸が築かれ、その後、1649年に永井直清が入城し、以後13代、幕末まで高槻藩3万6千石の譜代大名永井家の居城として、この規模が受け継がれました。城のつくりは東西 約 510メートル、南北 約 630メートルの南北に長い凸字型であり、本丸・二の丸を中心に三の丸、出丸、厩郭、弁財天郭などが配置され、外堀で囲われていました。

高槻城跡

高槻城三の丸から本丸を望むイメージ(AR高槻城の画像)の画像

高槻城三の丸から本丸を望むイメージ(AR高槻城の画像)

発掘調査 現地説明会資料

高槻城と現在の高槻城公園

現在、本丸のあった敷地は大阪府立槻の木高等学校が位置しており、二の丸の敷地は高槻城公園(中央エリア)となっております。現市民会館のある高槻城公園(北エリア)と、高山右近像や池のある高槻城公園(南エリア)には、武家屋敷がその大部分を占めている三の丸がおかれ、弁財天郭や三の丸御殿が南エリアに存在していました。

高槻城と計画地のおよその配置比較

高槻城と計画地のおよその配置比較【赤枠線が計画地】

城下町を巡る観光コースとして

高槻城が位置していた高槻城公園には、城の石垣や堀を模した池を中心とするゾーン、芝生や遊具などを中心とした広場、郷土の暮らしや生業が伺える民具などを展示する「歴史民俗資料館」、キリシタン大名として知られる高槻城主「高山右近」の石像や高槻城跡碑、本丸の石垣などがあり、「高山右近」の足跡をたどる観光コースのひとつに盛り込まれています。

城跡公園南エリアの池
高槻城公園(南エリア)の池
(高槻市観光協会ホームページより)

歴史民俗資料館(市有形文化財)の画像
歴史民俗資料館(市有形文化財)
(高槻市観光協会ホームページより)

高槻市観光協会公式サイト<外部リンク>

公園整備の概要について

基本理念

高槻城公園の整備では、高槻城公園と芸術文化劇場を一体的に再整備することにより、市民の憩いの場や、誰もが自由に楽しめるにぎわい空間を形成し、「みどり」「歴史」「文化」をめぐる人々の交流と地域の活性化を促す新たな交流拠点としての創造を進めていくものです。

整備理念の画像

計画区域

現在の高槻城公園南エリア、芸術文化劇場を整備する「中央エリア」に加え、現市民会館敷地を「北エリア」として公園区域に編入し、公園区域を拡大します。

高槻警察署、第一中学校、府立槻の木高等学校敷地等については、「中長期計画エリア」として、各施設の長期的な整備も視野に入れ、再整備の検討を行います。

公園区域の拡大範囲を示す画像

歴史的なデザインの再現

高槻城公園は高槻城の外堀内部の城地に位置していることから、再整備においては、高槻城の敷地の要素のうち、反映できそうな要素を抽出して空間構成の参考として、部分的に整備していくほか、歴史的な意匠の施設設置により、高槻城を再現していきます。

高槻城を復元した模型の写真
高槻城を復元した模型写真
(しろあと歴史館にて展示)

高槻城跡の石碑の写真
高槻城跡の石碑

中央エリアの整備

令和4年度には、高槻城公園(中央エリア)において、芸術文化劇場と周辺の公園整備を行います。

公園には、かつての高槻城を思わせる堀や塀を再現するなど、歴史的な遺構を現代的に再現します。芸術文化劇場のエントランスロビーやカフェに広く面した広場では、イベント空間として一体的な利用が可能となり、様々な催しの舞台として活用できます。

中央エリアの整備イメージの画像
中央エリア整備イメージ

高槻市城跡公園再整備基本計画について

※計画内の「新市民会館」は、高槻城公園芸術文化劇場と同施設です

関連リンク