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北摂唯一の近世城郭 高槻城
元禄4年(1691)、長崎から江戸を目指すオランダ商館のエンゲルべルト・ケンペルは、枚方から淀川の向こうに見えた高槻城について、次の感想を述べました。
「左手の川向うには、城が水中に築かれているように見えた。この城は高槻という小さい大名の居城で、遠くから大へん美しく野原の中に際立って見えていた」
―エンゲルべルト・ケンペル『江戸参府旅行日記』(東洋文庫)より
江戸時代の高槻城には、真っ白な三層の天守がそびえ、要所に櫓が配置されていました。当時の高槻藩主は永井直種。石高3万6千石と大きくはありませんが、京都と大坂の間にまとまった藩領を有する徳川譜代の大名です。高槻城は北摂唯一の近世城郭で、その存在を行き交う人々に誇示していました。本市の中心市街地の礎となった高槻城と城下(城に付属する町場)について、戦国時代から明治時代の歴史や動きなどを紹介します。
しろあと歴史館の高槻城模型
高槻城模型の天守部分拡大
高槻城の成立と入江氏
高槻城は、北から伸びる芥川の扇状地突端に位置する平城です。その歴史は平安時代からはじまるともされますが、記録で確認できるのは戦国時代の大永7年(1527)の合戦に登場する「高槻入江城」がはじめてです(『細川両家記』)。
入江氏は、足利尊氏に従って南北朝時代に駿河国(静岡県中部)から高槻に移ってきたとされます。やがて入江氏は居館を構えて高槻周辺の武士のリーダーとなり、寛正3年(1462)に入江信重が霊松寺(市内天神町二丁目)へ土地を寄進し、天文17年(1548)に入江成重が桧尾川の堤修理に関わったことが知られます。市内東五百住(ひがしよすみ)出身と考えられる松永久秀は、この入江氏の遠縁にあたりました。
近畿地方では、15世紀末期から16世紀初頭に武士たちが城館を築きました。この頃に入江氏も高槻城を整備しはじめたと思われます。二の丸跡の発掘調査では、延長約120メートルにも及ぶ入江氏時代の堀が検出されており、屋敷地に堀をめぐらす城館の姿が想像できます。周辺でも戦国時代の堀や溝が確認されており、複数の城館や屋敷が存在した可能性があります。
松永久秀の肖像画(しろあと歴史館蔵)
二の丸跡の発掘調査でみつかった戦国時代の堀
和田惟政と国内3番目の天主
永禄11年(1568)に上洛を目指す足利義昭と織田信長は、敵対する三好氏の勢力を追って芥川山城(本市大字原)に入りました。上洛を遂げた義昭は、近江国甲賀郡(滋賀県甲賀市)の土豪だった家臣の和田惟政の功績を評価し、摂津国(大阪府北部と兵庫県南東部)の統括と芥川山城を任せました。
芥川山城は三好長慶が天下を治めた巨大な山城でしたが、当時の武将たちは山城よりも交通の利便に富む平地の城郭を重視しはじめていました。そこで翌年に入江氏が没落すると、惟政は平地の高槻城へと居城を移します。高槻城は京都と大坂の中間に位置し、西国街道と淀川という水陸交通の大動脈に睨みを利かせる場所にありました。
惟政は高山氏ら摂津国出身の家臣を登用し、勢力を拡大しました。しかし、元亀2年(1571)の郡山合戦(白井河原の合戦)で戦死し、跡を継いだ子の惟長は天正元年(1573)に高山飛騨守・右近父子と争って高槻城を追われました。このとき、戦いの場所として高槻城の「天主」(『兼見卿記』)が登場します。記録上、この天主(守)は足利義昭の旧二条城(京都市)、明智光秀の坂本城(大津市)に続く3番目に古いもので、和田氏が最新の城へと高槻城を改修していたことがわかります。
キリシタン大名高山右近の城下町
天正元年(1573)から間もなく、世界的に有名なキリシタン大名高山右近が城主となりました。キリスト教の宣教師の記録によれば、城下に花々が咲き誇る教会を建設し、葬礼では自らが棺を担いだといいます。三の丸跡の教会推定地付近ではキリシタン墓地が発掘されており、二支十字が墨書された木棺やロザリオが出土しています。
また、教会に接する二の丸跡では、右近の時代の内堀跡が発掘されています。検出長約140メートル、幅約16メートル、深さ約4メートルの規模を持ち、侵入しようとする敵を多方向から攻撃できるよう鉤の手に屈曲を重ね、土塁の基底部には石垣を築いていました。また、堀底を土手で仕切って敵の動きを止める、近畿でも最古級の障子堀だったことが判明しています。
キリシタン墓地から出土したロザリオ(本市蔵)
二の丸跡の発掘調査でみつかった右近期の障子堀
右近は、信長の下で摂津国を支配する荒木村重に従いますが、村重が信長から離反した天正6年(1578)、信長は高槻城を攻撃します。城の様子を宣教師は「水を満たした広大なる堀と周囲の城壁」と表現し、職人や農民が居住したと記しました。これは一般人が住む場所、つまり城下をも堀や土塁で囲ったことを示唆します。このタイプの城下は惣構(そうがまえ)と呼ばれ、村重の有岡城(伊丹市)でも採用された新しいスタイルでした。実際、しろあと歴史館周辺で発見された外堀は幅24メートルを測り、後の近世高槻城外堀とも一部重複していました。広大な外堀と内堀を構えた右近の高槻城は、堅く守りを固めていたのです。
降伏した右近は信長から許され、引き続き高槻城を任されます。天正8年(1580)に信長は「破城令」を出して数多くの城を廃止し、城下の発展が見込まれる城だけを存続させました。翌天正9年(1581)、高槻城下ではイエズス会の日本巡察師ヴァリニャーノを迎えた盛大な復活祭が催され、パイプオルガンが鳴り響きます。信長の下、引き続き右近は城下町の発展を図っていきました。
右近期外堀をなぞって掘り直された近世高槻城外堀
高槻城公園の高山右近像
羽柴小吉秀勝と豊臣の金箔瓦
天正10年(1582)の本能寺の変で信長が死去した後、羽柴(豊臣)秀吉は大坂城を築いて天下統一を進めます。秀吉は、天正13年(1585)に大坂や京都の足元を固めるため、近畿を一族で治める方針を取りました。高山右近は播磨国明石(兵庫県明石市)へ移され、秀吉養子の秀勝(小吉)が新しい高槻城主となりました。秀勝の城主期間は短く、翌年には丹波の亀山城(京都府亀岡市)に移りますが、この間に秀勝は浅井三姉妹の一人・江を妻に迎えています。
やがて高槻周辺は、豊臣家の直轄領となりました。本丸跡の発掘調査では、江戸時代の堀と重複する豊臣時代の堀跡が確認され、金箔を貼った瓦が出土しました。金箔瓦は、金箔を軒瓦の文様正面に貼り付けたもので、織田信長が権力の象徴として自身と家族の城の屋根を飾ったのがはじまりです。秀吉も城に金箔瓦を採用し、天下人の権威を示していました。
また、二の丸跡の調査では、秀吉が天正15年(1587)に京都で完成させた聚楽第と同じタイプの瓦が出土しています。この時代の高槻城は、秀吉らしい城へと手が加えられたと推測できるでしょう。なお、文禄4年(1595)に豊臣政権は近畿の所領配置を見直し、高槻城には秀吉古参の家臣・新庄直頼が入りました。
出土した金箔押軒平瓦(円内に金箔が残る)
聚楽第と同タイプの軒平瓦
徳川幕府の最前線から築城へ
秀吉が没し、慶長5年(1600)の関ケ原合戦に徳川家康が勝利すると、家康は対豊臣の最前線として近江国に膳所城(大津市)と彦根城(彦根市)を築城します。一方で、摂津国は豊臣家と徳川家との共同支配となり、高槻周辺は徳川家の代官が支配しはじめ、徳川方の最前線となります。実際に豊臣と徳川が衝突した慶長19年(1614)の大坂冬の陣では、高槻城に家康の信任が厚い石川忠総が軍勢を率いて入城し、高槻から戦場へ兵糧米が運ばれたとも伝わります。
翌元和元年(1615)5月の大坂夏の陣で豊臣家が滅ぶと、6月には大坂城が松平忠明に、続く閏6月には高槻城が内藤信正に任されました。後に信正は初代大坂城代として徳川幕府の西国支配の重責を担います。そして大坂城再築に先んじ、元和3年(1617)から高槻城では築城相当の大改修がはじまりました。本丸や二の丸跡の発掘調査では、軟弱な地盤に石垣を築く梯子胴木組(はしごどうぎぐみ)などの高度な土木技術が確認され、投入された膨大な労力が知られます。石垣石は六甲山周辺や京都南部の加茂、遠く小豆島の石切場から淀川を介し、搬入されていました。
また、城内には、幕府直轄地の年貢を納める「幕府御蔵」が設置され、「二万石御蔵」とも呼ばれました。兵糧米の備蓄庫でもある幕府御蔵の設置場所は、近畿では高槻城の他に、京都に構えた二条城と大坂城、幕府直轄領の大津のみです。京都や大坂という日本の中心を掌握するに際し、いかに幕府が高槻城を重視したのかがうかがわれます。
淀川の前島地区に残されていた荷揚げの際に転落した「残念石」
(しろあと歴史館で展示)
本丸跡の発掘調査でみつかった石垣と梯子胴木組
近世高槻城の姿と縄張り
江戸時代の高槻城は、東西510メートル、南北630メートルの南北に長い凸型のような平面形をしていました。石垣は城門や櫓などの要所に築かれ、その他の部分は土居(土手)でした。また、天守と櫓は、白漆喰塗の層塔型という典型的な近世城郭の櫓建築でした。18世紀前半頃の城下町の様子を描いた「町間入り高槻絵図」によれば、三層の天守の一階の大きさは6間(約12メートル)×7間(約14メートル)と徳川大坂城の本丸三重櫓と同じ規模で、天守が建つ石垣(天守台)には上り口(付櫓台)が付属する姿で描かれています。
縄張り(平面構造)は、内堀に囲まれた南北に並ぶ本丸と二の丸を中心に、東側に厩郭(うまやぐるわ)、南側に弁財天郭が付属しました。本丸には南西隅に三層の天守がそびえ、他に2基の櫓が設けられました。二の丸は藩主が住まいし政務などを行う御殿が建ち、北西隅に二層の櫓がありました。文字通り厩郭には厩舎があり、一部の家臣が屋敷を構えました。弁財天郭は空き地のようで、その名は内堀の小島に祀られていた弁財天に由来します。
さらに外側の北から東側を三の丸、南を蔵屋敷、西側を幅の狭い帯郭が取り巻き、外堀がめぐりました。三の丸は主だった家臣を中心とする屋敷が立ち並ぶエリアで、別に城主の御殿も存在しました。また、寛永13年(1636)に高槻城主となった岡部宣勝が西側に出丸を築造しています。
高槻城絵図(しろあと歴史館蔵)
城と城下の構造
城下の暮らし
慶安2年(1649)に譜代大名の永井直清が3万6千石で高槻城に入り、以降、明治維新まで高槻藩永井家13代が続くこととなりました。
高槻の城下は、主に城の北から東にかけて広がっていました。武士や足軽、町人らの屋敷、寺社などがまとまって整然と建ち並ぶ、人々の生活の場です。東西方向の川之町-新川之町と横町の通り、南北方向の馬町-本町-新本町-八幡町の通りがメインストリートです。川之町と新川之町間には、寺院が連なる寺町が形成されていました。江戸時代の初めごろまで、瓦葺きの屋根は城や寺院に限られていましたが、やがて町屋にも広がります。
武士たちは、儒学・漢詩などの文学と剣術・砲術などの武道をたしなむべき教養として重視し、高槻藩士では漢詩で有名な藤井竹外や鉄砲術に通じた高階春帆の名が知られています。
人々の生活には、四季を通じて花見や紅葉狩りなどを楽しむ「遊山」や祭礼が定着し、7月の盆踊りや8月の地蔵盆も欠かせない年中行事となっていました。また、三の丸跡の武家屋敷跡の発掘調査では、「中将棋」と今と同じ将棋の2種類の将棋駒が出土しています。たしなみとして、高槻では武士らが将棋に親しんでいたことが知られます。
寺町の風景
高槻城三の丸跡から出土した将棋駒(本市蔵)
幕末から明治維新の高槻城
幕末の動乱期、高槻の士たちは京都の火消し役に加え、外国船の出没に備えて大阪湾の防備に出動します。また、京街道の枚方宿周辺の支配や警備も担当するなど、多方面での働きが求められました。
慶応3年(1867)10月に将軍徳川慶喜が大政奉還を行うと、12月に武装した長州藩兵が都を目指して西国街道を進み、幕府の関門であった梶原台場(本市梶原三丁目他)を守る津藩兵と交戦直前となります。このとき藩主不在の高槻藩では高槻城への籠城を決定し、藩士らが城内各所の櫓や諸門の守りを固めています。この後、長州藩兵は無事に梶原台場を通過し、鳥羽伏見の戦いを経て明治維新を迎えました。
明治4年(1871)の廃藩置県の後、一時高槻城には県庁が置かれましたが、翌年の陸軍の調査によって廃城が決まりました。この際の絵図には、天守や櫓、門などが描かれています。明治7年(1874)には鉄道建設(現JR京都線)に伴い、城跡の石垣石が資材に用いられました。当時の鉄道頭の井上勝は、工部省最高責任者の伊藤博文に、この件で内務省の許可を得てほしいと上申しています。役目を終えた高槻城は、鉄道という明治の産業革命を支えることとなりました。明治42年(1909)には、城跡に陸軍第四師団工兵第四連隊が京都の伏見から移ります。これは廃藩の後、衰退した高槻を発展させるため、有志の者が用地をまとめあげて請願し、高槻町(当時)が土地を献納した結果でもありました。
高槻町芥川町観光パノラマ地図(昭和5年)
今に残る旧陸軍工兵隊の営門と哨兵所跡
現在の高槻城
現在、地上に高槻城の堀や石垣は残りませんが、地形の高低差や道の曲がり方などに城の痕跡がうかがえ、「高槻まちかど遺産」に選ばれたものもあります。また地下には石垣や堀、建物や井戸など近世高槻城の遺構のほか、中世以前の遺構も残され、発掘された石垣石の一部は見ることができます。
城下町再生への取組として、本市は二の丸跡で芸術文化劇場の建設を進めるとともに、城郭にふさわしい水堀や石垣、瓦屋根がのる塀を再現するなど高槻城公園の整備に取り組んでいきます。しろあと歴史館では、高槻城の模型や絵図の他、関連する資料を展示していますので、ぜひご見学ください。