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伝能因法師墳

ページID:004579 更新日:2022年8月25日更新 印刷ページ表示
伝能因法師墳
名称 伝能因法師墳(でん のういんほうし ふん)
所在地 高槻市古曽部町三丁目
交通 JR高槻駅から北西へ徒歩約20分
時代・概要 平安時代 墳墓
備考 「伝能因法師墳附文塚、不老水、花の井」として
​昭和60年7月、市の史跡に指定

 

能因顕彰碑

能因顕彰碑の画像
能因塚の名で親しまれる伝能因法師墳は、平安時代中期の歌人、能因法師の墓と伝えられています。
能因法師は、本名を橘永やす(たちばなのながやす)といい永延2年(988)長門守橘元やすの子として生まれました。女流歌人伊勢(939?没)の作風を慕いつつ、当時の第一人者藤原長能に歌道を学び作歌に励んだといいます。
墳墓正面の顕彰碑は、慶安3年(1650)、高槻城主永井直清が建立しました。碑文は儒学者の林羅山によるもので、周辺には能因法師の吟稿を埋めたと伝えられる文塚や、名水の井戸として名高かった不老水、花の井があります。

かつての能因法師墳 全景

かつての能因法師墳 全景の画像

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