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13.高槻城を追われた和田惟長

ページID:046734 更新日:2022年3月22日更新 印刷ページ表示

前回取り上げた和田惟政の息子、惟長(これなが)を紹介します。

惟長は幼名を「愛菊(あいぎく)」といいます。
彼が18歳であった元亀2(1571)年8月、白井河原の戦い(茨木市)が起こりました。
この戦いで父・惟政が討ち死にして軍勢は四散し、惟長はわずかな兵と共に高槻城へと敗走しました。
その後、高槻城は敵勢に囲まれましたが、なんとか守り切りました。

父に代わり高槻城主となった惟長は、同年12月に神峯山寺(原)へ寺領の安堵状を、翌年2月には本山寺(同)へ安全を保障する文書を与えており、新たな領主として活動する様子がうかがえます。

しかし、若い惟長は家中をまとめることができませんでした。
イエズス会の宣教師によれば、惟長は一族の有力者であった叔父を殺してしまいます。
一方、配下の高山飛騨守・右近父子が惟長をしのぐ実力をつけてきました。

そして元亀4年3月、高槻城で争いが起こり、高山父子が惟長を追放しました。
この時、惟長と右近は互いに切り付けあい、敵味方入り乱れた乱戦の中、双方が瀕死の重傷を負いました。
敗北を悟った惟長は家族やわずかな家臣と共に高槻城を退去し、伏見へと逃れましたが、そこで亡くなったと宣教師は記しています。
なお、惟長の子孫と称する徳川幕府旗本の和田家の系図には、生き延びて豊臣秀吉、さらに徳川家康に仕えたとあります。

父の死後、高槻城の落城の危機を乗り切った惟長でしたが、城主であったのは2年に満たない短い期間でした。

惟長が本山寺へ与えた文書

惟長が本山寺へ与えた文書(本山寺蔵)​