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5.蓮如と腰掛石

ページID:004611 更新日:2022年3月22日更新 印刷ページ表示

戦国時代の有名な人物と高槻との接点を取り上げます。戦国時代の名僧で浄土真宗中興の祖とされる蓮如です。

蓮如は、応永22(1415)年、本願寺七世存如の長男として京都東山の大谷本願寺に生まれました。43歳で本願寺を継ぎ、近江国(滋賀県)南部の布教に乗り出しましたが、寛正6(1465)年、比叡山衆徒によって本願寺が焼かれます。
そののち、文明3(1471)年に越前国(福井県)吉崎に坊舎を構えるも、北陸で武士の争いなどが頻発していたので、吉崎を退去。

越前から丹波、高槻の萩谷を抜け南へ向かい、河内国出口(枚方市)を拠点に布教活動を展開しました。文明8(1476)年、蓮如が富田に布教拠点を設け、八男の蓮芸が「富田御坊」と呼ばれた教行寺を発展させ、周辺が寺内町となりました。
戦国の動乱のなか、蓮如の「御文(おふみ)」による分かりやすい布教活動によって浄土真宗の教えは人びとに広がり、本願寺教団は飛躍的に成長しました。

郡家本町の腰掛(懸)石(妙円寺境内)の画像
郡家本町の腰掛(懸)石(妙圓寺境内)

その足跡は、各地で伝承となっていて、富田町と郡家本町には「蓮如上人の腰掛石」が伝わっています。蓮如が石に腰かけて布教したと伝えられ、富田町の石は江戸時代のガイドブック「摂津名所図会」にも紹介されています。現在、蓮如の存在を身近に感じる旧跡として、大切にされています。

富田町五丁目の腰掛石の画像
富田町五丁目の腰掛石