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1.柴田勝家と田能城

ページID:004607 更新日:2022年3月22日更新 印刷ページ表示

歴史上の有名な人物と高槻との意外な接点を取り上げ、少し歴史を掘り下げてみます。初回は、織田信長の重臣であった戦国武将・柴田勝家です。

勝家は「鬼柴田」の異名を持つ織田家きっての猛将であり、一時期は京都支配の実務担当も担っていました。
元亀2(1571)年ごろ、勝家と同僚の坂井政直が、本市北部にあった田能城に籠る味方へ命令書を出しました。火難除けの信仰で有名な愛宕山の人びとが領地としていた外畑村(京都市)には迷惑を掛けないように、という内容です。
田能から亀岡へ抜ける府道トンネルの西側の山は、田能城があったことから「城山」と呼ばれています。今でも戦国時代の城跡が残っていて、勝家らの命令を受けた人たちは、この山城にいたと思われます。
田能城に籠っていた人々については、江戸時代の記録では本市の杉生にいた山伏や、田能から東に山を下った灰方(京都市)にいた有力者であったと伝えられています。

勝家が命令書を出した頃、織田信長は比叡山を焼討ちにし、多くの敵を抱えながらも、天下統一を目指していました。
この一点の命令書が、信長の天下のため、勝家が京都に近い交通の要衝・田能と周辺の掌握に一役買っていたことを示しています。

錦絵に描かれた柴田勝家
錦絵に描かれた柴田勝家(しろあと歴史館蔵)