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「高槻 まちかど遺産」富田・今城塚周辺地区

ページID:004601 更新日:2024年6月17日更新 印刷ページ表示

市では、生活に密着したまちかどの文化財や歴史などを「高槻 まちかど遺産」として市民のみなさまから公募、選定し、富田・今城塚周辺地区では24ヵ所に説明板を設置しています。
ウォーキングの途中などにご覧いただき、「歴史のまち たかつき」を感じてみてください。

「高槻 まちかど遺産」の一つ「本照寺 富寿栄の松を支えた石柱」と説明板の画像

 

番号

まちかど遺産名

説明板
所在地

ひとこと紹介

1

蓮如上人の腰掛石

富田町
5丁目7

室町時代の僧で、浄土真宗(一向宗)中興の祖である蓮如上人が、腰掛けて布教したと伝えられる石。

2

東岡宿の北門跡と石組         (※現在工事のため撤去されています)

富田町
5丁目9

富田北東部は、戦国から江戸時代にかけて「東岡宿」という町場で、周囲は土塁と堀・筒井池が廻り、北・南・西の主要な出入口に門が構えられた。

3

布屋屋敷跡と大イチョウ

富田町
5丁目5

布屋は江戸後期の富豪で、酒造家。
屋敷跡の庭には、神の化身で酒とも関わりが深いという白蛇を祀る祠と、その住処とされる大イチョウが残されている。

4

紅屋屋敷跡

富田町
5丁目16

江戸時代の豪商・紅屋(清水家)の屋敷跡。筒井池北東の一画約5000平方メートルを占めていた。

5

東岡宿の南門跡

富田町
5丁目15

東岡宿の主要な門の一つ「南門」の跡地。
門から南の道は、富田の中心街「市場通り」に通じていた。

6

筒井池の水門跡

富田町
5丁目17

富田支所東側の筒井池は、かつては大きな農業用溜池で、南東隅に水門と水路があり、南側の田へ水を供給していた。

7

御蔵屋敷跡

富田町
5丁目18

文禄年間(1592から96年)、豊臣直轄領の米蔵として置かれたのが始まりといい、江戸時代になっても引き続き利用された。
当時の富田は、高槻市域で最も石高が多い村で、大部分が幕府領(天領)であった。

8

市場通り

富田町
6丁目12

江戸時代の富田は、酒造業を中心とした在郷町として栄えた。富田を東西に貫く「市場通り」と呼ばれた道は、かつては多くの店が軒を連ねる中心通りであった。

9

普門寺前の道標と尼崎道

富田町
4丁目14

高槻城下と富田、茨木を結ぶ「富田街道」が南へ折れる普門寺前の辻に建立された。この辻を南へ下ると「大坂道」、途中西へ曲がると「尼崎道」となる。

10

御坊之内

富田町
6丁目10

「御坊之内」は教行寺の南と西の一帯の旧地名。教行寺がかつて「富田御坊」と称されたことに由来している。

11

大峰山 日丸講石燈籠

富田町
6丁目16

日丸講は、修験道の聖地・大峰山を参拝するために、富田の人々で結成された講。石燈籠は、江戸時代の文政11年(1828)に建立され、講の先達の名などが刻まれている。

12

西富田集落と水路

富田町
6丁目16

富田南西部は、かつて西富田という集落であった。集落の西辺を南行する水路は、台地の裾に沿って東に曲がり、西富田を西から南にかけて囲むように流れている。

13

慶瑞寺東の天神山

昭和台町
2丁目18

慶瑞寺の東隣には、かつて天神社という神社があり、一帯は天神山と呼ばれていた。
明治41年(1908)、西富田の八幡神社とともに三輪神社境内に合祀された。

14

旧富田小学校の門柱

富田町
4丁目15

富田小学校は、明治6年(1873)に開校し、移転を経て、明治37年(1904)、普門寺旧境内の当地に木造校舎を構えた。
その後昭和台町へ再移転したが、この地に残された門柱に往時の面影がしのばれる。

15

出世地蔵

富田町
4丁目14

明治時代の神仏分離により、神社の外に出されてしまった地蔵を、信者が不憫に思い、昭和50年代頃に現在の位置に安置したという。

16

本照寺 富寿栄の松を支えた石柱

富田町
4丁目4

本照寺にはかつて「富寿栄の松」というマツの大木があり、国の天然記念物に指定されていた。
境内には今も大きな切り株や、枝を支えた石柱が残され、当時の面影を伝えている。

17

東岡宿の西門跡

富田町
4丁目1

「東岡宿」の主要な出入口に構えられた門の一つ。西門の位置が時期によって異なっていた可能性もある。

18

跡坂

富田町
4丁目3

跡坂という地名の由来は、一説に「普門寺の後ろにある坂」といわれている。
跡坂を登り切った先は、西隣の総持寺村(現茨木市)へと続いていた。

19

「五社の水」

富田町
3丁目14

塚原北方で安威川から取水し、茨木市との境を流れる用水路を「五社水路」と呼ぶ。水路が開かれた時期は、古墳時代まで遡るとも考えられており、地元では「五社の水」と呼ばれ親しまれている。
H29-4 山家道の道標 富田町
1丁目31
南北の道は山家道(街道)といい、かつて西国街道の太田(茨木市)と富田を結んでいた。道標の案内から、霊場を巡礼する人々が淀川の舟運を利用していたことがうかがわれる。
H30-3

富田東口を示す道標

富田町
5丁目4
大正6年(1917)に地元の人々によって建てられた道標。そのまま東進して芥川の堤を南下すると唐崎に至り、さらに東に行くと大塚から渡し舟で枚方に通じていた。

20

西国街道 妙見道を示す道標

氷室町
1丁目15

妙見道は日蓮宗の霊場・能勢妙見山への巡礼道で、西国街道との辻にあたるこの場所には、三つの道標が建てられた。

21

水天宮遥拝所

氷室町
4丁目9

弁天池の対岸にある祠(水天宮)を拝むために設けられた。祠の正面が池に面しており、直接お参りすることが難しいため、遥拝所の窓から参拝する。

22

トロッコ列車の橋脚跡

郡家本町42

昭和15年(1940)から昭和30年代まで、芥川沿いに、「土汽車」と呼ばれるトロッコ列車が走っていた。今も川床に残された橋脚の基礎を見ることができる

ダウンロード用マップ

「高槻 まちかど遺産」(富田・今城塚周辺地区)マップ(PDF:821.1KB)

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