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「高槻 まちかど遺産」高槻・芥川周辺地区

ページID:004600 更新日:2023年8月1日更新 印刷ページ表示

市では、生活に密着したまちかどの文化財や歴史などを、「高槻 まちかど遺産」として市民のみなさまから公募、選定し、高槻・芥川周辺地区では31ヵ所に説明板を設置しています。
散歩やお買い物の途中にご覧いただき、「歴史のまち たかつき」を楽しんでください。
高槻まちかど遺産の一つ「都加母止(つかもと)塚」の画像

 

番号

まちかど遺産名

説明板
所在地

ひとこと紹介

1

芥川宿水門跡

芥川町
4丁目19

江戸時代の宿場町・芥川宿の西口にあたる場所に残る水門跡。芥川の増水時には止水板をはめ、宿場への侵水を防いだ。

2

愛宕燈籠と子宝地蔵尊

芥川町
4丁目20

燈籠は旧坂口町の「愛宕講」によって文政5年(1822)に建てられたもの。東隣の地蔵堂には子宝地蔵尊が祀られている。

3

神峯山寺道標と橋詰地蔵尊

芥川町
4丁目21

道標は、淀川河港・三島江からの参詣道に設けられた16基のうちの1基で、享和元年(1801)の建立。東隣の「橋詰地蔵尊」は芥川宿の西口で道祖神の役目も果たしていた。

4

芥川小学校跡地碑

紫町1
(ポケットパーク)

芥川小学校は、明治6年(1873)12月、万福寺の堂舎を仮校舎として開校した。昭和9年(1934)、現在の校地へと移転したため、この地最後の卒業生によって建立された石碑。

5

芥川宿と城下町を結ぶ道

芥川町
2丁目7

江戸時代、西国街道の芥川宿と高槻城下を結ぶメインルートとして、城下町北西の出入口「芥川口」に通じていた道。

6

山崎合戦の秀吉本陣跡

芥川町
1丁目
(駅橋上)

天正10年(1582)、「本能寺の変」の後、羽柴(豊臣)秀吉は本陣を上宮天満宮下の「天神馬場」に構え、天王山の戦いで明智光秀を打ち破った。

7

松永久秀の鼓塚

高槻町
12

高槻駅前郵便局の東側には、戦国武将・松永久秀が鼓を埋めたという伝承が元になった「堤塚」という地名(小字)が残っていた。

8

芥川口とのこぎり形の家並み

紺屋町
8

芥川口は高槻城下に設けられた北西の出入口で、その東、紺屋町の一角は、家並みが道に対して斜めに並ぶ「のこぎり形」になっている。

9

京口

京口町
5

京口は高槻城下に設けられた北東の出入口で、西国街道と高槻城を結ぶ八丁松原の起点にあたる。八丁松原は、かつて参勤交代にも用いられた。

10

前島口と本町通り東辻の道標

上本町
13

前島口は高槻城下に設けられた東の出入口。西の本町通りと交わる辻に建つ道標は、文政8年(1825)に建立された。

11

愛宕信仰の燈籠

大手町
4

愛宕神社を信仰する人々が組織する「愛宕講」により建立された。燈籠の火袋(火をともす所)には、火伏札などが供えられた。

12

高槻城北大手門跡

大手町
3

高槻城の三方にあった大手門のひとつ。門は残っていないが、「北大手」交差点にその名残をとどめている。

13

高槻城出丸の門跡

野見町
5

出丸は寛永13年(1636)ごろ、城の西側に増設された郭。北側にだけ門が構えられていた。

14

高槻城三の丸と外堀跡
(※現在工事中で立入できません)

野見町
2

旧市民会館周辺は高槻城「三の丸」北郭の南西部にあたり、かつては周りを広い外堀に囲まれていた。旧市民会館西側の段差はその名残で、外堀跡が一段低くなっている。

15

ムクノキ大明神

大手町
3

江戸時代、この地には立派なムクノキがそびえていた。当時のムクノキは残っていないが、現在は「ムクノキ大明神」として祠が建てられている。

16

高槻城の外堀道

大手町
6

江戸時代の高槻城外堀に沿っている道。敵の攻撃に備える工夫で、途中何度も直角に曲がっている。

17

道路に残る高槻城の堀跡

城内町
1

高槻城跡の周辺の道路には、ゆるやかな傾斜があり、かつての城堀の名残をとどめている。

18

思案石

城内町
1

かつて高槻城外堀沿いの角(本行寺前)にあり、「生活に苦しんだ人が腰を掛け、堀への身投げを思案した」という伝承からこの名がついたともいわれている。

19

高槻城の石垣石

城内町
2

昭和50年(1975)に発掘された高槻城の石垣石。石切場で切り出した際の「矢穴」痕や刻印を見ることができる。

20

高槻藩藩校「菁莪堂」跡

城内町
1

「菁莪堂」は高槻藩9代藩主・永井直進が1790年代に設立した藩校。8歳から18歳までの藩士の師弟が学び、多いときには在籍500人を数えた。

21

高槻城三の丸と外堀の段差

城内町
1

高槻城公園周辺は高槻城「三の丸」東郭の南部にあたり、公園の東縁に沿って続く段差は外堀の名残である。

22

高槻城の蔵屋敷跡

出丸町
4

江戸時代の高槻城南辺で、南大手門の西側に続く「蔵屋敷」と称された一画。ここから北側の坂の上が蔵屋敷。南側は城外にあたる。

23

都加母止塚

八幡町
6

江戸後期の『摂津名所図会』にはその名が記されている。大正時代の『大阪府全志』にも記載があるが、由緒などは不明である。

24

大塚口

八幡町
10

大塚口は高槻城下に設けられた南東の出入口。ここからの道は、淀川の堤を経て大塚から渡し舟で枚方に通じていた。

25

大坂口

土橋町
5

大坂口は高槻城下に設けられた南の出入口。ここから南へ向かうと、下田部や芝生を経て、淀川の河港・唐崎浜や三島江浜などに通じていた。

26

富田口

城西町
7

富田口は高槻城下に設けられた南西の出入口。ここから西へ向かう「富田街道」は、富田や茨木など北摂を代表する町場を結んでいた。

H29-1

上宮天満宮参道の燈籠と狛犬、石段上の鳥居

天神町
1丁目5

昭和52年(1977)に現在の大鳥居が建立されるまで、石鳥居が建っていた。
大燈籠は江戸中期の寛延3年(1750)、狛犬は幕末の文久2年(1862)に建立された。

H29-2

能因法師墳・花の井への道標

古曽部町
2丁目9

平安時代の歌人・能因法師の墓と伝わる能因法師墳を案内する道標。この80メートル東には、能因法師が用いたと伝わる井戸「花の井」を案内する道標がある。

H29-3

高槻城の石垣石を転用したレンガアーチ橋

川西町
3丁目4

明治6年(1873)に着工された京阪間の鉄道(現JR京都線)では、いくつものレンガアーチ橋が造られた。アーチ橋の入口や土台には、破却した高槻城の石垣石が転用された。

H30-1

円成寺前の道標

京口町
5

京都・山崎方面と大坂・尼崎方面を案内する道標。幕末の万延元年(1860)に地元の人々により建立された。

H30-2

是三寺前の道標

八幡町
11

大阪府が各地に建てた道標の一つ。
明治時代に「枚方街道」と呼ばれた枚方と西国街道の芥川を結ぶ道と、富田・大阪方面の分岐にあたる場所に設置された。

 


ダウンロードマップ
[高槻まちかど遺産」(高槻・芥川周辺地区)マップ(PDF:594.3KB)

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