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史跡今城塚古墳

ページID:004569 更新日:2022年9月22日更新 印刷ページ表示
 
名称 史跡今城塚古墳(しせき いましろづか こふん)
所在地 高槻市郡家新町
時代 古墳時代後期
備考 昭和33年2月、国の史跡に指定

古墳群コース

全景

今城塚古墳全景

 

 

 

 

 

 

 

 

史跡今城塚古墳は、三島平野のほぼ中央に位置し、淀川流域では最大級の前方後円墳です。西向きの墳丘の周囲には二重の濠がめぐり、総長約350メートル・総幅約360メートルをはかり、日本最大の家形埴輪や精緻な武人埴輪が発見されています。
今城塚古墳は、531年に没した継体大王の真の陵墓と考えられ、古墳時代の大王陵としては唯一、淀川流域に築かれた古墳です。平成9年度から10カ年にわたる確認調査により、古墳の規模をはじめ、のちの城砦や地震による変形の様子など、貴重な成果が得られています。なかでも平成13・14年度の調査で北側内堤からみつかった埴輪祭祀区(はにわさいし く)は、大王陵での埴輪祭祀の実態を示すものとして大きな注目を集めています。
なお今城塚という名称は、戦国時代に城砦として利用された伝承にもとづくもので、江戸時代の絵図にも今城陵(いまきのみささぎ)などと記されています。

ハニワの出土状況(埴輪祭祀区)の画像
ハニワの出土状況(埴輪祭祀区)

家形埴輪の画像
家形埴輪
神殿風に屋根を飾る高床式の家
高さ約170センチメートル

史跡指定と公有化

昭和33(1958)年に、日本の歴史を跡づけるかけがえのない貴重な文化財として、国史跡の指定を受けました。
指定面積は約85,210平方メートルです。

高槻市では、古墳の保存を図るため、国や大阪府の支援をうけながら約50年間をかけて、ほぼ全域を公有化しました。

この間、古墳では水田耕作がやみ、墳丘や内堤のマツ林は自然植生であるクヌギやシイなどのドングリ林に、移り変わりました。その一方、古墳の周辺はすっかり市街化し、かつて広がっていた水田の景観は、まったく様変わりしました。

50年以上も前から古墳の保存に取り組んできました!
昭和30年代前半の今城塚古墳とその周辺
ほぼ全域が民有地で、内濠・外濠をはじめ、周辺一帯には水田が広がり、4か所の池は農業用水の溜池として利用されていました。(『日本の古墳』から)

市街化がすすむ古墳周辺(南側上空から)
平成12(2000)年ころの状況
古墳の北側は老人福祉センターや小学校が占め、東・南・西側は大半が宅地化されています。

整備前の状況

今城塚古墳は、すべて人の力で、濠を彫り、土を積み上げて墳丘を形づくり、遠くから運んできた石で表面をおおい、ハニワを立て並べた「造り山」で、後円部墳丘の中心部には埋葬施設が設けられていました。

つくられてから1500年近くを経て、風雨にさらされ、ため池として利用された周濠の波打ち際は浸食がすすんでいました。平成9年からの発掘調査により、文禄5(1596)年の伏見地震による地滑りで、墳丘の盛土の多くが内濠へ滑落したことが判明しました。さらには江戸時代以来、内濠の水田化や内堤の土採りなどがすすみ、人の手が加わって、古墳本来の形が大きく崩れているところがあります。またブラックバスなどの外来生物やヒノキの植林などによって、在来種は駆遂され、この地域本来の植生すらまぎらわしくなっていました。

浸食がすすむ周濠の波打ち際の画像
浸食がすすむ周濠の波打ち際

地震で内濠へ滑落した墳丘の盛土の画像
地震で内濠へ滑落した墳丘の盛土

表土が流出して露出した円筒埴輪の画像
表土が流出して露出した円筒埴輪

それらを放置すれば、将来に残し、伝えるべき古墳そのものー史跡の歴史的価値や学術的価値、地域の アイデンティティである歴史遺産ーの位置が損なわれ、失われていくことは火を見るより明らかです。 

史跡だからこそ開発をまぬがれ、伝えられたのであり、古墳のこれ以上の風化をとどめ、崩壊を防ぐことが急務でした。私たち共有の財産である史跡を、将来の文化発展の基礎とするために、よりよい状態で保存するとともに、広く市民・国民に公開することが求められました。

史跡公園化整備事業

古墳の保存と公開

 高槻市は、「歴史の息吹くまちづくり」に取り組むなかで、史跡今城塚古墳を歴史遺産のネットワークの中核として整備し、史跡公園として公開するため、平成16年から7か年計画で整備工事をおこないました。

整備の考え方

今城塚古墳の適正な保存を基本に、

  1. 郷土の歴史文化を学ぶ場。
  2. 散策や憩いの歴史的空間。
  3. 歴史文化に関するさまざまな活動をささえる拠点。

となる史跡公園にすることにより、都市の風格や市民の郷土への誇りと愛着をはぐくみ、特色ある地域文化を全国に発信していくことを目指す。

整備の具体像

古代の壮大なモニュメントを体感できるように、調査成果にもとづいて二重の濠を復元的に整備し、大形の前方後円墳の形を表現します。また、この古墳最大の特徴であり、他に類を見ない埴輪祭祀場に復元埴輪を配置して再現します。

一方で、墳丘は現状の地形や樹木をできるだけ残します。内堤には緑陰を確保し、バリアフリーの観点から 地下通路やスロープを設けます。内濠は水と芝生で水面の広がりを表現し、外濠は芝生で空濠を再現します。 また古墳北側の広場には埴輪祭祀場の展望デッキや全体模型などを設置し、北側道路沿いに今城塚古墳と 三島古墳群を学習できる「今城塚古代歴史館」を整備し、「歴史のまち・高槻」を全国に発信していく拠点とします。

1500年前の古墳完成想像図(早川和子画「よみがえる日本の古代」2007より)

古墳各部の整備方針

整備計画平面図

古墳各部の整備方針(拡大図)(PDF:632KB)

整備工事の実施概要

7か年の工区割

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今城塚古墳公園

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