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西国街道と芥川一里塚

ページID:004555 更新日:2025年3月31日更新 印刷ページ表示
西国街道と芥川一里塚
名称 西国街道 芥川一里塚(さいごく かいどう あくたがわ いちりづか)
所在地 芥川町三丁目他
時代 江戸時代
備考 西国街道芥川一里塚
平成5年3月、府の史跡に指定

芥川一里塚

芥川一里塚の画像

西国街道は、8世紀に整備された都と九州・大宰府を結ぶ「山陽道(さんようどう)」の後身にあたり、約8.1kmにわたり市域を東西に貫いています。古来、淀川とともに京都・大阪を結ぶ動脈として、政治・経済両面にわたる重要な役割を担い、高槻の発展に多大な影響を与えました。現在の道筋は、14世紀に固定化したとみられます。
江戸時代には脇街道として「山崎通(やまざきみち)」と称され、西国大名の参勤交代や京坂間の交通路として大いに賑わいました。
街道沿いには、一里塚が設けられ宿場が整えられていました。一里塚とは、1里(約4km)ごとに街道の両脇に塚を築き、榎(えのき)などを植えて、路程の目印としたものです。市内では梶原と芥川にありましたが、現在は旧芥川宿東口の東側だけがのこり、芥川一里塚は府の史跡に指定されています。 

芥川宿絵図(部分)

芥川宿絵図(部分)の画像

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