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14.高槻藩主永井直清と大坂城

ページID:037144 更新日:2022年4月28日更新 印刷ページ表示

今回は、高槻藩主永井直清と大坂城の関わりを紹介します。

徳川幕府の譜代大名・永井直勝の息子である直清は、将軍徳川家光の側近でした。
徳川家旗本として活躍した直清は、寛永10(1633)年、43歳の時に山城国の神足(こうたり・京都府長岡京市)で2万石の大名となりました。
これは、「上方(京・大坂)」での徳川幕府の支配を堅固にするための政策の一環でした。

大坂城は幕府の上方での最重要拠点であり、幕府直轄の「将軍の城」でした。正保4(1647)年、大坂城代の阿部正次が死去。
幕府上方支配の現場トップが不在となった事態に、幕府は直清に大坂城へ随時赴いて城内の体制を点検するよう命じています。

翌年、将軍家光が日光東照宮参詣で江戸を留守にするため、その間の非常時に備えた大坂城の警備役の一人に直清は任命され、9月に新しい大坂城代が決まるまで務めました。
この事態の際、直清は「知恵伊豆」とよばれた松平伊豆守信綱をはじめ、幕府の老中達と書状をやり取りし、連絡を密にとりました。
働きぶりが評価された直清は、慶安2(1649)年に加増されて、高槻藩3万6千石の藩主へと栄転しました。

その後、直清が70歳になった万治3(1660)年6月に大坂城の煙硝蔵(火薬庫)が落雷により炎上し、大きな被害がでました。
大坂近隣の大名に復旧作業が命じられ、直清は老齢ながらも自ら担当した現場を見回りました。

幕府からの信頼が厚く、京阪間の要衝の地である高槻を任された直清にとって、大坂城との関係は深いものがありました。

(しろあと歴史館)

大阪城の写真

現在の大阪城