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11.足利義昭の上洛と高槻

ページID:031967 更新日:2022年3月22日更新 印刷ページ表示

戦国時代の有名な人物と高槻との接点を取り上げます。今回は、15代室町幕府将軍・足利義昭です。

義昭は、天文6(1537)年、12代将軍足利義晴の次男として誕生しました。当時、嫡子以外は出家するのが慣例で、義昭も6歳で奈良の興福寺一乗院に入室しました。

永禄8(1565)年、三好氏によって兄の義輝(13代将軍)が殺害されると、義昭は奈良から、後に高槻城主となる甲賀(滋賀県)の和田惟政の館へと脱出します。その後、大名朝倉氏の一乗谷(福井市)へ居を移し、上洛と将軍就任を目指して各地の大名へ協力を求めました。
これに呼応したのが織田信長でした。

永禄11年9月29日、信長と共に天神の馬場(天神町ほか)へ進軍した義昭は、義輝殺害に加担した三好長逸(ながやす)のこもる芥川山城(三好山)を攻め落とし、翌日入城しました。三好氏を破った義昭の元へは、公家や近隣の有力な武士たちがあいさつのため訪れています。
そして翌月、義昭は京都へ入り、将軍に就任しました。

しかし間もなく信長と対立し、天正元(1573)年、京都を追われます。

天正16年、再び上洛した義昭は将軍を辞して出家し、昌山(しょうざん)と名乗りました。
既に豊臣秀吉が時の権力者として君臨しており、足利将軍の時代は名実ともに終焉を迎えました。

慶長2(1597)年には、公家で能筆家の水無瀬兼成(かねなり)に将棋駒を発注しましたが、その完成を見ること無く、その年、大坂城で亡くなりました。
この時、義昭が発注していたものと伝わる将棋駒が今に伝えられています。

足利義昭が発注したと伝わる象牙製将棋駒
足利義昭が発注したと伝わる象牙製将棋駒(個人蔵、福井市立郷土歴史博物館寄託)