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10.足利義栄と富田

ページID:031965 更新日:2022年3月22日更新 印刷ページ表示

戦国時代の有名な人物と高槻との接点を取り上げます。今回は、室町幕府十四代将軍足利義栄(よしひで)です。
歴代将軍の中でも、義栄の名を知る人は少ないのではないでしょうか。

義栄は、天文5(1536)年に阿波国の平島(徳島県阿南市)で生まれ育ちました。
血縁としては、義輝(十三代将軍)・義昭(十五代将軍)兄弟の従兄弟に当たります。

永禄8(1565)年、将軍義輝が三好義継(長慶の後継者)らによって殺害されると、義栄は次の将軍候補として擁立されます。
翌年、義栄は阿波より畿内へ渡海すると、諸大名を動員したり、朝廷への働きかけを行ったり、積極的に将軍就任への布石を打ちました。
そして、永禄11(1568)年2月、ついに将軍に就任しました。
しかし、その年の秋、義栄は病死します。わずか半年余りの将軍でした。

さて、義栄は阿波から渡海した後、越水城(兵庫県西宮市)を経て富田(高槻市)の普門寺へ移ります。当時、普門寺は武士の重要な拠点とされていました。
義栄は、将軍任命を伝える朝廷からの使者もこの地で迎えています。その際、公家らが蹴鞠(けまり)を行い、義栄が御簾(みす)の中から鑑賞していたとの記録も残されています。
しかし、義栄が幕府の本拠地である京都へ入ることはついにかないませんでした。

生まれ故郷を離れ、念願の将軍に就任しつつも、道半ばで病に倒れた義栄。富田の地で何を思ったのでしょうか。

普門寺の方丈
普門寺の方丈(重要文化財)