ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

本文

9.天神の馬場に布陣した前田利家

ページID:031956 更新日:2022年3月22日更新 印刷ページ表示

戦国時代の有名な人物と高槻との接点を取り上げます。今回は加賀百万石の大名・前田利家です。

利家は14歳で織田信長の近習になり、天正3(1575)年には柴田勝家の下に配属され、北陸地方で活躍します。

利家が高槻に現れたのは天正6(1578)年のことでした。この年、荒木村重が信長に反旗をひるがえしたため、村重の配下にいた高槻城主の高山右近が信長と敵対する事態となりました。
信長の一代記である「信長公記」によれば11月、高槻城攻めに着手した信長は安満の山手に本陣を構え、天神の馬場に息子の信忠や信雄、そして「越前衆」と呼んでいた諸将を北陸から呼び寄せ布陣させました。
天神の馬場とは西国街道と上宮天満宮の参道が交わる付近の総称で、交通の要衝でした。信長はさらに、その背後にそびえる天神山に砦を築かせました。天神の馬場に布陣した越前衆の中に、当時、又左衛門と称していた利家がいたのです。

この時は、右近が降伏して開城したため戦いは起こらず、両者が刃を交えることはありませんでした。
そして、利家ら越前衆は続く茨木城攻めに備え、太田(茨木市)へと移りました。
後に、豊臣秀吉によるバテレン追放令によって流浪の身となった右近は、利家に保護されました。武勲をあげ、茶人としても活躍して利家から厚く信頼されたと伝えます。
利家と右近が、往時の高槻城攻めについて語り合うことはあったのでしょうか。

天神の馬場
JR高槻駅前から見た天神の馬場のあたり