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8.高槻城へ救援に来た明智光秀

ページID:031943 更新日:2022年3月22日更新 印刷ページ表示

戦国時代の有名な人物と高槻との接点を取り上げます。明智光秀です。

戦国時代の公家、山科言継(ときつぐ)の日記には、元亀2(1571)年9月24日の条に「明智十兵衛(光秀)が摂津国(大阪府北部など)高槻へ出向いた。千人ばかり率いているそうだ」とあり、光秀が高槻城へ軍勢を率いて向かったことが記されています。この時、高槻城に何があったのでしょうか。

永禄11(1568)年、織田信長は足利義昭を擁立して上洛する際、それに先駆けて三好氏の芥川山城を攻め落としました。
その後、義昭は室町幕府将軍に就任し、家臣の和田惟政が芥川山城を任され、翌年惟政は高槻城に本拠を移しました。しかし元亀2年8月28日、惟政は敵対していた荒木村重、中川清秀らの軍勢との白井河原の戦い(茨木市郡山周辺)で敗れ、討ち死にしました。

惟政の息子の惟長は戦いの後、高槻城へ退きましたが従う兵は少なく、高槻城は松永久秀など、義昭と敵対する勢力からの脅威にさらされました。そこで、信長・義昭勢力は、高槻城の救援に光秀を向かわせたのでした。冒頭で触れた言継の日記には、光秀の記事の翌日に、義昭家臣の一色藤長らが摂津国に出陣したとあり、高槻城救援の一環であったとみられます。

光秀による高槻城救援からは、戦国時代の荒波にさらされる高槻城の様子がうかがえます。

明智光秀の錦絵
明智光秀の錦絵(しろあと歴史館蔵)