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声優・福山潤 スペシャルインタビュー 好奇心を育ててくれる街
福山潤 声優。BLACK SHIP株式会社所属。1997年に『月刊Asuka』のラジオCMナレーションでデビュー。高校在学中に青二プロダクションが運営をする声優・ナレーター養成校青二塾大阪校に入学。卒業と同時に上京し、数々の人気作の声優やナレーターを務める。

自転車さえあれば、
どこへでも行けた少年時代




福山さんが高槻に住んでいたのはいつ頃ですか?
高校卒業までの18年間を高槻で過ごしていたので、1997年くらいまでです。駅近くの引っ越し屋さんでアルバイトしたこととか、明治の工場近くを通ると甘い匂いがしたこととか、通っていた塾の授業中、ずっと高槻音頭が鳴り響いていた事とか。本当にもう挙げればきりがありません、高槻の記憶はいくらでもありますね。


子どもの頃はどんなことをして過ごしていたのでしょう。
友達と駅前に行く日もあれば、山とか川に行く日もあり、毎日必ず違うことをしている少年時代だった気がします。振り返ってみると、高槻ってすごくいい環境だったんだと思いますね。距離はありますが自転車で行ける圏内に、ありとあらゆるスポットがある。山でトカゲ探して、川でフナ釣って、駅前のおもちゃ屋さん行って…みたいな感じです。駅前の西武百貨店(現 阪急百貨店)のおもちゃ屋さん、ラジコン修理してもらったり、あそこのおじさんには本当にいろいろ良くしていただきましたねえ。いろんなところで仲良くなる人がいました。


自転車で市内全域を駆け巡っていた感じですね。
面白い街だったんだと思います。夏なんかは摂津峡辺りまで行って本格的に川遊びしたりもしました。そうやっていろんなことをして遊ぶのが当時は普通だと思っていましたけど、街と田舎のいいとこどりみたいな感じもしますね。子どもの頃は元気なので、エキスポランドとか、淀川を渡ってひらかたパークとかまでも、自転車で行ってました。



特に思い出深い場所ってありますか?
淀川支流の芥川にかかっている次郎四郎橋というのがあって、ここには高校の頃の記憶が詰まってます。川を境に学区が分かれたりするんですけれども、別々の学校に通う近所の友達とは、大体次郎四郎橋で待ち合わせして遊んでました。思春期の頃の記憶なんで、甘酸っぱかったり、ほろ苦かったり(笑)。今でもこの辺の子らは似たような経験してるのかなあとか思うとニヤニヤしてしまいますね。



高校時代は、福山さんにとっては声優養成所「青二塾」に通い始めたりと、いわばキャリアのスタートを切った時期ですね。
そうですね。今はもう変わってしまったんですが、当時は高校生でも青二塾に通うことができました。高校一年生の終わりにオーディションを受けて、高校二年生から通い始めるんですが、青二塾大阪校は新大阪駅が最寄りだったんですね。新大阪は高槻から電車で最短10分ぐらいですから、実家から通える距離でこういう養成所があったというのは、結構大きかったと思いますね。



歴史が、暮らしのなかに
溶け込んでいる

先ほど摂津峡の話も出てきましたが、その近くには芥川山城跡もありますね。
そうなんです。高槻って今城塚古墳に始まり、高槻城や芥川山城など、歴史スポットが多いんですよね。三好長慶や松永久秀、高山右近のこととかは、もちろん学校の地域学習などを通じて知ってはいましたが、例えば、漫画『へうげもの』とか大河ドラマ『麒麟がくる』とかでは、有能かつキャラの濃い武将として描かれていて、「へー、そんな人だったんだ!」とか驚いた感じです。高槻以外の地域で紹介されてる様子を見て、あらためてその魅力に気づくというか。ちなみに『麒麟がくる』で三好長慶を演じた山路和弘さんは、我々声優業界の大先輩にあたります(笑)。



どちらかというと、自分の街の歴史の魅力に気づいたのは大人になってからだったのでしょうか。
そうですね。ただ、高槻に住んでいる頃は、もう少し別の目線で歴史を感じていた気がします。今城塚古墳とかは展示も面白くて大人にもおすすめなんですが、子どものころはあの辺を歩いて、よく古銭のようなものが落ちてたのを見ていました。なんかそういうところで、この辺りには昔から人が住んでたんだなあとか、過去と現在が地続きな感じがしました。


駅前にある城跡公園も、街並みに溶け込んでいますね。
まさに、私が高槻と言って真っ先に思い浮かべるのは、城跡公園です。駅前に用事があったら、そのあとは必ず城跡公園。小さい頃から、なんか遊ぼうと思ったら城跡公園でした。何して遊ぶかは置いといて、とりあえず城跡公園に行ってから何をやるか考える。とにかく広くて遊具も充実していたので、飽きもせずにずーっと遊んでましたね。周りを見渡しても、僕たちのような地元の友達同士から家族連れまで、本当に老若男女、ありとあらゆる人の憩いの場になっていたと思います。
令和3年2月より、城跡公園は「高槻城公園」に名称が変わりました。


いま、城跡公園内の市民会館は建て替え工事中で、2022年に芸術文化劇場として新たに生まれ変わる予定です。市民会館はどんな場所でしたか?
市民会館はおそらく、私の基礎を形作った場所です。子ども向けの映画上映プログラムがあって、『ハチ公物語』とか、山下泰裕選手を描いた映画(※『山下少年物語』?)とか、教育映画みたいなものをかけていたんです。私はここで『となりのトトロ』と『火垂るの墓』を二本立てで観た記憶があります。すごい組み合わせですよね(笑)。映画公開当時と同じ二本立て構成ですけど、その時と同じショックを体験したんじゃないかなあと思います。
それからもうひとつ大きな出来事があって、私が中学生の頃に、声優の林原めぐみさんがここでイベントをやったことがあるんですね。同級生に誘われて行ったんですけれども、その経験は間違いなく今につながっていると思います。市民会館、いま思えばカルチャーの発信地というか、文化的な下地を作る場所でした。芸術文化劇場として生まれ変わるということですけれども、これからもそういう場所であって欲しいですね。



高槻はいま、大きく変わってきていますが、福山さんにはどのように映っているでしょうか。
最近の高槻は目を見張るというか、来るたびに変わっていっていて、そのスピード感に驚きます。「自分がいた頃にこれがあったら良かったのに」なんて思うものも増えました。シネコンができて封切り映画もすぐに観られるようになったし、ジャズストリートで賑わってる様子とかにも驚きます。私の頃は、大作系の映画は大阪あたりまで出かけてましたし、お祭りといえば高槻音頭ですから(笑)。
ただ、どれだけ変わっていっても、高槻らしさは変わらないなあと思います。市内を駆け巡っていた私からしてみれば、高槻って好奇心が育てられる街なんです。山や川などの自然も、歴史スポットも、商業地域も、自ら楽しみをどんどん見つけていけるようなところがあります。高槻ってこんな場所だったんだ!っていう驚きが尽きない、表情豊かなところがやっぱり高槻だなあと感じています。