現在の位置

続日本100名城 芥川山城跡

天下たる畿内を制した三好政権の本拠地

三好山(標高182.69メートル。通称城山)は、北・西・南の山裾を芥川の渓谷が限る天然の要害で、山頂からは生駒山地から大阪市内まで、大阪平野が一望できます。
三好山に築かれた芥川山城跡は、戦国時代屈指の山城として、平成29年3月に公益財団法人 日本城郭協会が「続日本100名城」に選定しました。「続日本100名城」とは、すでに選ばれていた「日本100名城」に続くもので、優れた文化財であること、著名な歴史の舞台であること、などが選定基準とされています。公募などを経て、歴史学や城郭史に精通する学識者で構成する選定委員会で決定されました。

(外部リンク)日本城郭協会ホームページ

細川高国の築城

芥川山城は、永正12年(1515)から翌年にかけて、細川高国が築城しました。高国は、室町幕府の管領をつとめ、摂津国と丹波国を束ねた守護の職を兼ねる細川京兆家に入った人物です。戦国時代の同家は二派に分裂し、対立を深めていました。高国は幕府が所在する京都に屋敷を構えていましたが、争いの中で摂津に軍事拠点を設けます。それが芥川山城でした。

北側上空からみた芥川山城跡

築城の様子は、『瓦林政頼記』という記録にうかがうことができます。「当国ニ可然城郭無テハ不可叶トテ、国守ハ上郡芥川ノ北ニ当リ、可然大山ノ有ケルヲ城郭ニソ構ヘラレケレ、昼夜朝暮五百人・三百人ノ人夫、普請更ニ止時ナシ」。高国は敵対する細川澄元に対抗するため、城郭が必要だと感じます。そこで城にふさわしい土地を求めたところ、三好山が適地ということになり、築城が始まりました。昼夜を問わず300人~500人が動員される大工事で、完成後は家臣の摂津国人能勢氏が城を守りました。

北側上空からみた芥川山城跡

摂津国の「守護所」

時が経ち、細川高国は澄元の子・晴元との争いに敗れて、享禄4年(1531)に自害します。しかし、他にも敵を抱える晴元は京都に入ることができず、天文2年(1533)以降、同5年にかけて芥川山城に長期滞在を繰り返します。この間晴元を訪ねて、京都の公家らが家来を遣わし、城では様々な折衝が行われました。もちろん、晴元はこれら人々に対応できるだけの家臣を率いて在城したのでした。
戦国時代になると、各地の守護らは自らが担当する国に居所をさだめ、拠点づくりを本格化させていきます。このような場は、守護所と呼ばれていました。政治だけでなく、周りに形づくられた町場が経済の中心地になっていくところもあり、後の戦国大名による城下町の礎となった守護所もみられます。
細川晴元の長期滞在によって、この時期の芥川山城は摂津国の守護所に相当する場所になったといえるでしょう。しかし、芥川山城から一番近い町場は、約3.5キロメートル離れた西国街道の芥川宿であり、晴元自身は京都にいるべきだと考えていたと思われるので、他国の守護所とは大きく状況を異にしています。

西国街道と芥川一里塚

天下人・三好長慶の居城

細川晴元の家中は、たびたび分裂を引き起こし、やがて摂津国人らを味方につけた三好長慶が大きな力を持つようになりました。天文18年(1549)、ついに晴元と袂を分った長慶は江口の戦い(大阪市)で勝利を収め、晴元を追放しました。そして天文22年、長慶は芥川山城の東に接する帯仕山に陣を置き、妹婿でありながらも晴元に味方した芥川孫十郎が籠もる芥川山城を攻撃します。孫十郎は降伏し、城を接収した長慶はここに居を据えました。
長慶は永禄3年(1560)に飯盛城(四條畷市・大東市)へ移るまでの約7年間、この城で五百住(よすみ・高槻市)の土豪一族から取り立てた松永久秀らを重用しつつ、足利将軍家を擁立することなく、自らの名前で畿内(山城国、大和国、摂津国、河内国、和泉国)一円に号令しました。当時の人々が考える「天下」とは、今でいう首都圏、つまりはおよそ畿内の範囲を指していました。

三好長慶が郡家村の勝訴とした文書に添付された図

そして、長慶は、眼下の真上村と郡家村の水争いを裁いたように、地域の人々と向き合う新しい政治に力を注ぎます。長慶が織田信長に先駆けた天下人とされる所以です。芥川山城には、長慶との面会や裁定を求めるたくさんの人々が登城しました。

 

三好長慶が郡家村の勝訴とした文書に添付された図
(三好長慶水論裁許井出絵図・高槻市指定文化財)

41.三好長慶の水論裁決

三好政権の「首都」

城には、松永久秀に代表される長慶の重臣や奉行人らが常住し、天下の政治が行われました。長慶は、堺の商人と交わって連歌や茶の湯に親しみ、キリスト教の布教を認めるなどの教養を示した人物です。城では当代一流の学者・清原枝賢を招いて儒学の講義が行われ、連歌会などの文化的な行事も催されました。
長慶が飯盛城へと移った後、芥川山城は息子の義興が家督とともに継承しました。天下人の居城は飯盛城となりましたが、いわば一線を退き政務は息子に委ねた格好で、「首都」たる政権の所在地は動きませんでした。永禄6年(1563)に義興は、この城で亡くなり、市内の霊松寺(天神町)には、墓があります。永禄11年、京都を目指す織田信長は、その前に芥川山城を手に入れようと、三好一族らを追います。そして、芥川山城で新たな将軍足利義昭と天下の形勢を見定め、上洛を遂げました。畿内を制するには、芥川山城を押さえる必要があると信長も感じていたのでしょう。
新たな城主には将軍足利義昭の重臣で、来日中の宣教師が「都の副王」と称した和田惟政が就き、家臣の高山飛騨守(高山右近の父親)が城を預かりました。入洛途中の宣教師ルイス・フロイスは飛騨守に招かれ、城で歓待を受けています。しかし、翌年に惟政は高槻城へと移り、芥川山城は徐々に役割を終えました。

三好のカンカン石<みよしのかんかんいし>

43.戦国時代の高槻城主 和田惟政

城の構造と遺構

芥川山城の範囲は、東西約500メートル×南北約400メートルに及び、規模は大阪府下で最大級を誇ります。三好山の最高所を主郭(しゅかく。江戸時代の城の本丸)とし、周囲の尾根や谷筋には地面をならした平場である曲輪(くるわ)が数多く設けられています。石垣を多用する江戸時代の城とは異なり、戦国時代の城は土づくりでした。このような構造の城郭を「連郭(れんかく)式山城」と呼び、戦国時代の城郭の典型例です。
芥川山城では、要所に土塁や堀切(ほりきり)を配置し、守りを固めました。東側には土塁で囲まれた曲輪や斜面を一直線に下る竪土塁(たてどるい)という珍しい遺構もあります。これは、斜面を回り込んで迂回する敵を阻止する仕掛けだと思われます。また、南側の大手の谷筋には、高さが2メートル以上もある石垣が正面に積まれています。戦国時代の城では石垣を用いることは少なく、織田信長が天正4年(1576)から築城をはじめた安土城が石垣づくりの城の画期とされます。登城者に「みせる」ための石垣であり、今後の研究が期待されます。

珍しい竪土塁の遺構

珍しい竪土塁の遺構

堀切と土橋

堀切と土橋

主郭の周辺

主郭の周辺(奥の高まりが主郭)

大手石垣

大手石垣

芥川山城跡 概念図(縄張り図 平成5年度作成)(PDF:280.6KB)

城跡の調査

高槻市教育委員会では、平成5年度に主郭で発掘調査を行いました。その結果、礎石を用いた東西6.6メートル以上、南北3.9メートル以上の建物を検出しました。一部の発掘でしたが、床を張った4つ以上の部屋があり、縁がめぐる本格的な建物であることがわかりました。従来、戦国時代の山城には簡単な建物しかないとの考えが主流でしたが、そのイメージを一新する貴重な調査となりました。
弘治2年(1556)の正月、城では三好義興や松永久秀の「陣所」が火事に遭ったため、久秀が醍醐寺(京都市)の金剛輪院殿御厨子所の建物を移築したと当時の記録にあります(『厳助往年記』)。当時の城には、今の私たちが寺院で目にするような建物があったのでしょう。

主郭で発掘された建物の礎石

主郭で発掘された建物の礎石

火災を受けた跡

火災を受けた跡

また、平成28年度には大手石垣の測量調査を行い、平成29年度には城跡を中心に航空レーザー測量を広い範囲で行いました。航空レーザー測量は、上空からレーザー光を照射し、地面から反射した数値によって地形の高低差を把握するものです。そのデータを基に作成される赤色立体地図によって、城郭の遺構や周辺地形を詳細に観察することができます。

芥川山城跡 赤色立体地図(PDF:93.1KB)

城跡の見学とアクセス

お知らせ

(平成30年9月14日掲載)

平成30年9月の台風21号による倒木等によって、危険な場所が多数あります。城跡へのアクセスは困難です。


現在でも、三好山には山城跡の遺構が良く残り、かつての芥川山城の偉容を伝えています。見学に際しては、次の点に注意してください。
※城跡は私有地です。地元の方のご迷惑となるような行為は慎んでください
※主郭をはじめ、曲輪の地下には貴重な戦国時代の遺構が埋まっています。地面を掘り起こしたり、石やかけらを持ち帰ったりすることは、厳に慎んでください
※駐車場はありません。公共交通機関をご利用ください
※付近、及び山城跡一帯にトイレはございません
※城跡は整備された史跡ではありません。木が生い茂り、危険な場所もありますので、事前の下調べをお願いします。虫や蛇もいますので、服装にもご留意ください

アクセス:JR高槻駅(北のりば)から、高槻市営バス〈塚脇〉〈下の口〉行きで、「塚脇」下車。徒歩約30分(坂道、途中から未塗装)。

(外部リンク)市バス時刻表(JR高槻駅 北のりば)

芥川山城跡アクセスマップ(PDF:100.1KB)

スタンプの設置場所

続日本100名城のスタンプは、高槻市立しろあと歴史館に設置しています。芥川山城跡や三好長慶の関連資料も展示していますので、どうぞ、ご来館ください。
※休館日(月曜日、祝日の翌平日、12月28日~1月3日)は押印できません

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芥川山城跡

お問い合わせ先
高槻市 教育委員会 教育管理部 文化財課 しろあと歴史館
住所:高槻市城内町1-7  地図
電話番号:072-673-3987
FAX番号:072-673-3984
お問い合わせフォーム(パソコン・スマートフォン用
※フォームでのお問い合わせは回答までに日数をいただく場合があります。
お急ぎの場合は必ずお電話でお問い合わせください。

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