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発掘調査でわかったこと

平成9年度から10か年にわたる今城塚古墳の発掘調査で、古墳の築造技術に関する情報や、当時のカミ祀りの様子がうかがえる列島最大の埴輪群、遠く九州から船で運び込まれた石棺など、多くの重要な発見があり、驚くべき事実が次々に明らかになってきました。 これほど壮大な大王墓を、長年かけて調査した例は全国でも初めてです。
高槻市教育委員会では、毎年、調査ごとに現地説明会を開催。全国から25,000人を越える人たちが今城塚古墳を訪れ、発掘成果を体感しました。 見学者の皆さんは、異口同音に埴輪の造形美や、古代の土木技術のすばらしさを称え、歴史ロマンあふれる大王墓の実態を目の当たりにしたことに感動し、驚嘆の声をあげていました。 以下、主な発掘調査成果を紹介します。

埴輪祭祀場の調査(平成13年度)、現地説明会風景(平成17年度、墳丘葺石)、「高槻市文化財スタッフの会」の協力のもとに実施された第10次調査の現地説明会。最高2時間待ちの見学者の列の様子

10か年の発掘調査地(PDF:419.6KB)

発掘調査と現地説明会(PDF:7.9KB)

伏見地震による地すべり

今城塚古墳は、墳丘が崩れて段築がはっきりせず、内濠の大半は埋まって水田に利用されていました。 1次~3次調査の段階では、戦国時代に城砦を築くため、墳丘を切り崩して濠を埋めたのでは、と考えていました。ところが4次調査に至って、文禄5(1596)年に発生した伏見地震の地滑りによる変形であることが判明しました。 遺跡調査によって、断層や噴砂跡などの地震痕跡がしばしば発見されています。しかし今城塚古墳ほど明確で大規模な地震痕跡が調査された例は他にありません。

地滑りで埋まった北東側内濠(第1次調査)

底がほぼ平らな内濠は、約1000年かかって厚さ1メートルほど泥土が溜まったあと、2、3メートル角もある大きな土塊群で一気に埋まっていました。
土塊は墳丘盛土が割れたもので、ひとつひとつ人力で積まれた幅0.3メートルほどの細かい土層がウロコ状に認められました。

地滑りで埋まった西側内濠(第4次調査)

前方部の墳丘が内濠内へ大規模に滑り落ち、その先端は幅25メートルの濠をわたって、内堤まで達していました。
文禄五(1596)年に発生した直下型大地震、伏見地震による地滑りが原因と考えられています。

地滑りで乱れた墳丘の盛土層(第2次調査)

もともと墳丘は3段に築かれていましたが、地滑りによって大きく変形しています。
その断面には、いたるところに断層のようなずれが認められました。

判明した新事実

地滑り土の下から見つかった南側の造り出しや、内堤築造前の祭祀場などは、発掘調査によって初めて確認されました。とくに築造前に行われた祭祀場の発見は、大王墓では今城塚古墳が初めてです。

墳丘南側のくびれ部でみつかった造出

地滑り土の下から北側と南側の両方の造出が確認され、伝統的な大王墓の形を引き継いでいることがわかりました。

内堤築造前の祭祀跡

北東部内堤で、内堤盛土の下から、径5~8センチメートルの円礫を用いた石敷が発見されました。
円礫は淡路島洲本市周辺から運びこまれたものです。内堤が直線部から曲線部へ移行する、まさにその変化点にあたり、内堤築造前に行われた何らかの祭祀跡と考えられます。

古墳築造の高度な技術

今城塚古墳は、墳丘の最上部に横穴式石室を設けるために、雨水が盛土内部まで浸み込まないように排水施設を埋め込み、重い石材が不等沈下しないように石室基礎を固めていました。 今城塚古墳のために編み出された当時の最先端土木技術です。

墳丘内石積(第8次調査)

墳丘内に幾本もの排水溝をそなえた石積みを設け、浸透してきた雨水を強制的に墳丘外へ排出する工夫がなされていました。

石室の基盤工(第10次調査)

墳丘の2段目上部にあって、石室をささえる堅固な石積が、地震で崖下へ盛土もろとも滑り落ちた状態で発見されました。石室石材は失われ、石棺も破片になっていました。

埴輪祭祀場

側内堤の中央部長さ65メートル、幅10メートルのステージを張り出させ、人物や家などの形象埴輪を130点以上配列した、埴輪祭祀場が見つかりました。大王墓の埴輪祭祀の実態を示す、今城塚古墳最大の特徴となる遺構です。

調査中の埴輪祭祀場(第5次調査)

腐食土を除くと、おびただしい数の埴輪片が出土しました。本来の樹立位置や方向など見極めるため、破片ひとつひとつを写真や図面で記録してから取り上げます。

人物(巫女)の出土状態(第5次調査)

千木と鰹木を飾る家

祭祀場は、柵形埴輪で東西4つに区切られ、それぞれに形象埴輪を配置していました。 亡き大王を悼み、新しい大王が即位する儀式の様子を表していると考えられます。埴輪は日本最大の家形埴輪(高さ 170センチメートル)をはじめとして、どれも大きく、ていねいに作られており、武人や巫女などは一瞬の所作をとらえて造形的にもすぐれています。

甲冑をまとった武人、両手を高く掲げる巫女、魚と鳥の絵を飾る家、止まり木にとまるニワトリ

角のある牛、片流れの家、上端を山形につくる柵と門(門の門柱は復元)

完成直前の埴輪祭祀場

今城塚古墳の埴輪は、1キロメートルほど離れた新池埴輪窯(現在のハニワ工場公園)で焼かれたものです。
祭祀場を仕上げるため、埴輪づくりの総責任者が駆けつけて、巫女をはじめとする多数の人物や立派な家、鶏、水鳥、牛、馬などを柵で仕切った区画に並べる作業を、あれこれ細かく指示したものでしょう。
(『よみがえる日本の古代』より)

ハニワ工場公園

石棺と副葬品

今城塚古墳の埋葬施設は、鎌倉時代に行われた盗掘や、伏見地震による地滑りのために、失われていました。しかし石棺の破片や副葬品の一部が発掘調査で出土し、その一端が明らかになってきています。
なかでも石棺は、兵庫県高砂産の竜山石、熊本県宇土産の馬門石、大阪・奈良にまたがる二上山白石、いずれも凝灰岩の石棺石材が出土し、3基の家形石棺が納められていたとみられています。
運び込まれたそれらの石棺は、広範な地域から資材を調達するなど、今城塚古墳が並外れた背景のもとに造られたことを教えてくれます。

今城塚古墳出土の石棺石材

豆粒大から一抱えもある大きなものまで、大小多数の破片が出土しました。
工具の痕跡がみられるものや、赤い顔料が残っているものもあります。
3基のうち、どれが大王の棺とみるべきか、まだ確定していません。

西日本各地の石棺石材

石棺作りに適した凝灰岩は産地が限られているため、どの地域の石材をもちいたのかを知ることは、地域間交流を復元する手がかりにもなります。

出土した副葬品は、金銅製の装身具や銀象嵌の大刀、美しいガラス玉、よろい、鉄鏃などがあります。いずれも当時の技術の粋を凝らして製作されており、棺内に副葬された可能性が高いものです。

銅板に金メッキをほどこした、貴重な装身具片・竜などの模様を銀象嵌でほどこした鉄刀、刀装具や冑の鉄小札、馬具、ガラス玉

史跡 今城塚古墳とは

お問い合わせ先
高槻市 街にぎわい部 文化財課 今城塚古代歴史館
住所:高槻市郡家新町48-8 地図
電話番号:072-682-0820
ファクス番号:072-682-0930
お問い合わせフォーム(パソコン・スマートフォン用
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