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いにしえ物語最終話 大塩平八郎探索一件 二

大冷害が全土を襲う

堂島米市場

天保元年(1830年=実は文政十三年)という年は、前年の豊作を祝うおかげ踊りや御蔭参りで明けたといいます。しかしそれも束の間、七月には京都で地震があり、秋九月の台風で淀川がはんらん、諸国凶作と報じられています。これはまさしくのちの大飢饉の前触れでした。

はたせるかな、天保四年には関東から北は大風害、上方では江戸廻米(かいまい)の投機が流行、このため播州加古川では米を買い占めた大商人に数万人が押し寄せて打ち壊すという騒ぎが起こっています。大坂市中の人心の不穏を見て取った西町奉行矢部定謙(さだかた)は、大坂米の江戸廻しの制限、堂島米市場の投機の禁止などの緊急政策を実施し、さらに城米の放出や富商の拠金によって窮民の救済にあたろうとしました。

これはすでに与力の職を退隠していた大塩の進言によるといわれ、陽明学者としての平八郎の最初の政治行動だったといえましょう。

ところが、現実にはこの飢饉対策もあまり実行されたといえず、平八郎はいら立ちを募らせながら、自分はもう幕府の役職ではないのだからと、各地での講学に専心する日々でした。

天保五年(1834年)は、さいわい土用に日照りがあり、作況がやや好転しましたが、翌々七年にはすさまじい大冷害が日本全土を覆います。

樫田の隣、丹波・別院(現亀岡市)のある村の記録では、その年は五月ごろから異常が見えはじめています。五月十六日から降り出した雨は、断続的に止まず、七月九日までに延べ三十一日、日差しのあった日はわずかに十一日という有り様でした。これは旧暦ですから、今の六月下旬から盆過ぎまでのほとんど毎日が雨だったことになります。
そして、これに追い撃ちをかけたのが十八日からの大風、彼岸過ぎからの冷気でした。「八月二十日(新暦では九月三十日)前後は子供・老人などは綿入れを着て、朝には氷霜が降るので、草刈りも昼中しかできない。冷気が強いので稲の穂は出ないし、出ても実がはいらない」という記述は、さきごろの「平成大凶作」を思い起こさせます。

この年の作柄は、この地域で平均三〇から四〇パーセント。おまけに土が凍って裏作の麦の畝拵(こしら)えや肥置きにも支障が起こったといいます。

続く

注釈:この内容は、平成4年1月25日から平成7年9月10日まで、広報たかつきに連載されていた「新・いにしえ物語」をホームページに再掲したものです。

いにしえ物語最終話 大塩平八郎探索一件 三

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