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いにしえ物語最終話 大塩平八郎探索一件 三

幕府による飢饉対策

江戸時代の米価の単位

この地域の米価は、七月には一石銀百匁(もんめ)だったものが翌年には二百匁を超え、二月には二百二十匁に達しています。食糧の価格というものは、必要供給量が二、三割落ちるだけで二倍になるというのは、今も当時も変わらぬ法則だったわけです。東北ではこの飢饉に、人肉まで食べたという話もありますが、ここ別院でもふだんは食べない樫の実(どんぐり)が高い値で売買されているのです。

こうした時、まず村々での対策は、倹約と施行(せぎょう)でした。

施行というのは、もともと帰依する僧侶に施物(せもつ)を捧げることから、中世には、貴族・武家・豪商農・寺院などが、救済として生活困窮者に金銭や米穀を施すことをいいましたが、近世にはとくに飢饉や大火事の災害時に、幕府や藩、都市の富商、城下の豪農などによる施行が、組織されるようになってきました。

これは一種の社会事業・社会政策でしたが、この制度化は享保の蝗害(こうがい)大飢饉(1732年)に始まったといわれます。以来、幕府は町や村に定量の米を備蓄させ、緊急時には豪商農に財物の拠出を要請したりしたのです。

天保の飢饉でも、こうした公的な施行は機能しました。先の別院の村では両三度にわたる村施行がありましたし、高槻藩領津之江村でも、藩に施行の許可を願い出ています。

富田村でも、その年(天保七年=1836年)十二月に施行が催されました。まず対象となる貧窮の者が調査され、新家町・跡坂町といった町別に書き上げられました。対象者は中難(ちゅうなん)・極難(ごくなん)に分けられ、中難の数は分かりませんが、極難は百十二軒を数え、これは村の軒数の三分の一に上るといわれます。さらに貧窮者には村方の手で半値の米が販売され、翌年の二月の施行と合わせて、これに要した米は四十七石二斗。村はこれを時価の八割八分掛けで買っていますから、差額の負担はたいそうな額でした。そしてこれに協力したのは、在の米仲買と酒造家でした。

続く

注釈:この内容は、平成4年1月25日から平成7年9月10日まで、広報たかつきに連載されていた「新・いにしえ物語」をホームページに再掲したものです。

いにしえ物語最終話 大塩平八郎探索一件 四

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