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いにしえ物語最終話 大塩平八郎探索一件 八

高槻藩でも広く交友

菁莪堂跡の碑(第一中学校内)

大塩平八郎は当代一級の陽明学者でしたから、彼を崇敬し、親しく講義を求めるものも多くありました。高槻藩でも、藩校「菁莪堂(せいがどう)」に大塩をたびたび招き、家士に講話を聴かせていますし、その縁で先の服部奥助のように、子弟を門人として「洗心洞」塾に住まわせるものも出ています。高槻藩永井氏九代藩主直進(なおのぶ)・十代直与(なおとも)親子の学問奨励以来、家中には向学の気風が定着していたのです。

平八郎と親交があり、書状のやりとりをしている藩士(門人)には、高階子敬(たかしなしけい)・芥川元答(むきゅう)・柘植連城(つげれんじょう)などがいました。

子敬は本名高階雄次郎。大塩は彼に松茸をもらったお礼と、学問上の質問に対する答えを書き送っています。大塩研究の草分けである故幸田成友(しげとも)博士は、この雄次郎を「子収(ししゅう)」とされ、この雅号が一般に流布していますが、藤井竹外の「二十八字詩」の稿本などから竹外と大塩平八郎とを含む交友関係を探ってみると、どうしても「子敬」の名しかでてこないのです。子敬と子収が別人ならば子収も竹外の交遊関係に出てこなくてはならないはずなのです。

原本を見ないで軽々しく批判するのは幸田博士に失礼ですが、どうも書状の宛名を博士が読み違えられたと思われてなりません。そこで一応「子収」を「子敬」のこととして解説しておきましょう。

高階子敬は、有名な漢詩人で明治の藩政改革にも活躍した高階春帆(しゅんぱん)と同一人物だという説もありますが、これは誤り。天保十一年(1840年)の年紀のある「高槻城下図」の中に、大手門内三之丸東側に「高階雄次郎」の屋敷があり、万延元年(1860年)の図には同地を「高階民太郎」が所持していますから春帆(民太郎)と子敬(雄次郎)は明らかに子と親の関係で、子敬は「左忠(さちゅう)」のことにまちがいありません。民太郎はこの一揆当時十一・二歳でした。

続く

注釈:この内容は、平成4年1月25日から平成7年9月10日まで、広報たかつきに連載されていた「新・いにしえ物語」をホームページに再掲したものです。

いにしえ物語最終話 大塩平八郎探索一件 九

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