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孤高の詩人 藤井竹外

藤井竹外 詩碑

高槻藩の中堅家臣

 孤高の詩人藤井竹外は、幕末の激動期を生きた高槻藩の中堅家臣でした。文化4年(1807)生まれの彼は名を「啓」とされていますが、これは嘉永7年(1854)初版の「竹外二十八字詩」稿本や書状に記された名前。藩役所の公式記録には「吉郎」とあります。家禄50石。給人席といますから、古くは代々知行地をうける権利をもつ家格で、時には政務の中枢を担いうる身分でもありました。
 こんな家柄でありながら竹外はいつのころからか詩作に傾倒し、酒に浸り、勤番をきらって病気だといっては家にこもり、療養だといっては旅に出る毎日だったといいます。若き日、鉄砲術で家中無双といわれた竹外が、その後、なぜ「疎放、飄逸、酒乱」と評されるような生活を選んだかは、謎ですが、それを解く鍵の一つに大塩平八郎の事件が思い起こされます。
 天保8年(1837)2月19日、大塩平八郎(中齋)が大阪天満与力町でおこした一揆は、彼が高槻藩士と親交があり、一部の子弟が門人として大塩の塾邸に学んでいたことなどから、家中に大きな衝撃を与えました。中齋から親しく講学を受けた柘植牛兵衛が、その夜、組織された一揆勢鎮圧の隊長になるなどの皮肉な場面もありましたが、竹外自身はこれへの参加を拒みました。私淑した頼山陽はすでに亡く、その社会批判の流れをくむとはいえ、中齋のような激派にも至らなかった竹外は、弾圧の姿勢を拒むことで自らの節度を表したのでしょうか。彼の詩作の中にのちに尊王派志士となる梁川星厳との交友を詠んだものが多いのも、その思想と行動の位相を暗示していると思われます。

詩作に傾倒 奇行ふえる

 この事件があってから竹外の奇行は、度を増して人々の目をひきました。詩作に取り付かれ、心にかなった句が思い浮かぶと、あたり構わず大声で「妙」と叫ぶのが、誰知らぬ者もない癖となりました。泥酔して路上に眠ったり、素足で野原を渉遊することもしばしば。
 ある時、竹外は江戸勤番を命ぜられました。しぶしぶ下ったものの、頭の中は漢詩ばかり。近所の銭湯へ行ったのはよいのですが、帰り道を忘れ、浴衣のまま往来で地図を広げていると、うしろから友人の声。「もし、藤井殿、何をしてござる」「いやなに屋敷(藩邸)に帰る道を忘れたによって、探しておりますが」「ハハハ、これは酔狂な。屋敷はここでござろう」。みると竹外は藩邸の目の前で地図を広げていたのでした。

慶応2年の6月に死亡

 こんな彼にも世情の変転の中で、憂国の血が騒いでいたに違いありません。花鳥風詠の多い彼の七言絶句の中で、時おり尊王思想などがのぞくのも、あながち時代性とばかりはいえないでしょう。
 竹外は明治維新を見ずに慶応2年(1866)7月、60歳で亡くなりました。長男の又一(貞臣)が槍の名手でありながら、明治2年(1869)の兵制改革で銃卒隊長になったのも、亡き竹外の遺志だったのかもしれません。

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