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雨の七卿落ち

旧芥川宿

若き日の尾崎三良

 文久3年(1863)、旧暦中秋8月21日の夜が白々と明けるころ。雨上がりの西国街道をひた走りに西へ下る若者が一人いました。単衣羽織に足袋はだし、目深にかぶった道中笠や蓑からは滴が落ちていました。若者はまだ20歳にも足らない精かんな顔立ちでしたが、何かにせかされるように村々を突っ切り、芥川の宿はずれで提灯を吹き消すと、とあるはたご屋の表戸をたたきました。出てきた女中に二言三言何やら聞くと、丁寧におじぎをしてまた西へ。今度はやや安心した足取りで歩きだすのでした。
 この若者は、前日8月18日京都皇居内の政変のため都落ちを余儀なくされた尊攘派急進公卿・三条実美の家臣。のちに明治政府の元老院議官、法制局長官として活躍した尾崎三良の若き日の姿でした。彼は19日に京を出発した7人の公卿たちの後を追って、西国街道を陸路兵庫浦(神戸市)へ。この道中は政変後の京都情勢を報告する任務を帯びて一行を追うものだったのです。

大宰府へと落ち延びる

 尊王攘夷を掲げ、扇動と脅迫で将軍家茂の上洛以来、いったんは朝議中枢を掌握した急進派でしたが、ブレーンの真木和泉や久坂玄端らには、新政権に対する確とした構想があるわけでもなく、暗躍する天誅組や長州藩士を統制することもできず、穏健派の孝明天皇に再び公武合体の道を選ばせてしまいました。中川宮や京都守護職松平容保らの策動で18日朝の宮中参内を拒否された三条実美、三条西季知、東久世道禧、壬生基修、四条隆謌、錦小路頼徳、沢宣嘉の7人の公卿は、世にいう七卿落ちを敢行。翌19日未明、従者数十人と共に長州、さらに大宰府へと落ち延びていったのです。

ずぶぬれで芥川宿へ

 その日は明け方から雨でした。一行は竹田街道から山崎に入りました。公卿らは白羽二重に紫ばかま、蓑笠の旅装でしたが、従者といえば腹巻甲冑、筒袖陣羽織に抜き身の槍という異様な行列。このため道で人に物を聞けば逃げられ、茶店に寄っても逃げられ、道中かごまでも寄りつかない有様です。三条実美は山崎あたりで足を傷つけ、来合わせた農民を刀で脅してかごを担がせ芥川宿へ。近くの農家から米俵をもらって甲冑を押し込みましたが、よろいのしころがちらついて、なおのこと村人をこわがらせたといいます。
 ずぶぬれのうえ頭の先まで泥まみれの一行は、くたびれ果てて芥川宿に到着。街道沿いの旧家には、七卿が泊まったという言い伝えが残っていますが、池部義象の『七卿落』に「かくて争ひて旅舎をもとめ歩く混雑はさながら敗軍の士の道に迷えるが如く、甲の家を尋ねて乙の家を探し、辛うじて夜の十時頃に至りて二十余戸の旅舎の落着き、わずかに手足を伸したり」とあるのが現実的でしょう。旧家には東久世通禧が泊まったといわれますが、泊まるも泊めるも相当な勇気の要ることでした。
 このとき共に西下した真木和泉は、のち再び上京。翌元治元年(1864)7月禁門の変で敗れ、天王山で自刃。しかし、これからのち数年、歴史は彼らの思案をはるかに超えた速さで展開します。歴史の引き金に参加した尾崎三良も、12年後の明治8年(1875)には政府批判や民権論を弾圧する言論統制令「讒謗律(ざんぼうりつ)」を自らの手で起草しなければなりませんでした。

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