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譜代大名の役割(永井直清)

永井直清画像(京都市東山区 悲田院蔵)

剛の直清

慶安2年(1649)の秋8月25日。前任松平康信のあとを受けて、永井直清が主な家臣百余人をつれて高槻城に入部した時、彼はもう還暦近い58歳でした。直清はその若き日、将軍宣下直前の徳川秀忠に小姓として仕え、謀略で名高い大坂の陣(1614~5)に23歳で初陣。夏の陣では、二人のよろい武者を同時に倒した剛の者でした。長兄の尚政は、男兄弟の多い永井ファミリーの中でも、さすがに親譲りの知恵者で、父の譜代側近の地位と環境を十二分に役立て、父直勝の存命中、慶長8年(1622)嫡子の身分のまま35歳の若さで老中職に列します。

永井体制

 これに比べて、弟の直清が西の丸勤仕から御書院番頭に昇進して従五位下日向守に任ぜられ、一本立ちするのが、父の死後の寛永9年(1632)41歳の時といいますから、随分晩成だったわけです。
 兄の柔に対する弟の剛、兄の智に対する弟の勇は、そのまま譜代幕閣家臣の移りゆく二つのタイプでした。その意味では、弟直清は戦乱修羅の時代の最後の親衛隊の面影を残し、兄尚政は松平信綱―あの知恵伊豆に代表される初期幕政能吏の新しい典型でした。この両人が絶妙なコンビネーションで幕政を担当したら、と考えつくのは、当時の幕府首脳としては当然だったのでしょう。
 三代将軍家光の日光参詣、西の丸普請、忠長卿の改易など一連の大事件を片付けた江戸幕府は、永井兄弟が父直勝没後遺領の継承・分割をすませ、家中も落ちついたのを見計らって、寛永10年(1633)3月25日、兄尚政の老中職を解いて淀へ、弟直清を川向かいの乙訓郡勝龍寺(京都府長岡京市)へ配置し、上方民政の要務に当たらせます。
 こうして、後の歴史家に「永井体制」と呼ばせた摂河泉支配が完成します。淀城は将軍上洛の拠点となるほか、尚政は江戸に常駐して政策・情報の集中に当たり、直清は在地して京都所司代板倉重宗の不在中や大坂城代阿部正次の死後欠員中の代行に当たるなど、京・大阪をにらみすえた永井兄弟の活躍はめざましいものでした。
 このことは、直清が高槻に入ってからも変わりません。とくに承応2年(1653)の禁裏(御所)炎上に伴う京の「安全・静謐」を確保する警備・治安などの重要な任務を全うしなければなりませんでした。そのため、所司代牧野親成が在府(江戸詰め)だという理由で、直清の参勤を延期したりするほどでした。高槻に着てからの直清は健康にも恵まれ、年とともにかつての武骨ぶりは丸みを帯びてきましたが、その行動力は少しも衰えません。

直清の悩み

 しかし、この城主にも大きな悩みがありました。後継者がいなかったのです。いや、いましたが幼少だったのです。
 直清の実子は直吉といい、直清26歳の時の子でしたが、生来の病弱で、本来なら8、9歳、遅くとも元服までには済ませる将軍拝謁が18歳に伸びました。もっともこの病気は重いものではなく、彼は立派に妻もめとり、寛永15年(1638)21歳の時に嫡子直時をもうけました。時に祖父直清勝龍寺にあって47歳。
 まもなく孫の直時の承祖(家督継承資格)が認められて直吉は廃嫡となり、公務のないまま江戸桜田門外の屋敷で53歳の生涯を終えます。
 将軍に奉仕し、家禄を守り、家臣を統率する当主には少しの身体的欠陥も容認されない、というのが封建的武家社会のしきたりだったのです。
 それは、現代の私たちの人を見る眼の問題=(イコール)人権の意識にもつながっていることは否定できません。

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