現在の位置

京口と八丁松原

八丁松原

旅人たちの道しるべ

 西国街道を歩きますと、処々目につくのは古い道標です。今では新しい建物の片すみに忘れられたような存在ですが、近世から明治・大正と、交通機関の発達しないころは、旅人たちの道しるべとして「生きて」いました。市内にはこうした道標が、成合にも、川久保にも、富田にも、三島江にも、あちこちに見かけられます。なかには移動したものもあり、ハテナと首をかしげるようなものもあるでしょう。
 ここでは、道標そのものをとりあげるのではなく、近世(江戸時代)の高槻の主な交通路とりあげ、それが庶民にとってどういう意味があったのかを考えてみましょう。このことで道標のもつ役割を理解する手助けにもなればと思うのです。
 さて、近世高槻の城下町には他領、他国から入る道が六つありました。城下町は領内政治の中心で、家臣の住居もあり、いくら平和の時代とはいえ、人民支配の要塞でしたから、無条件に「開放」された町ではありませんでした。
 豊臣秀吉が京の町づくりの際、洛中の周囲に「お土居」と称する堤塁を築き、洛外に通じる道を7つ設けて、俗に「京の七口」といいました。丹波口、粟田口、東寺口などは有名です。

高槻の六口

 高槻城下の六口も、絵図(『高槻市史』第四巻(二)史料篇3所収「高槻城および城下絵図」)でみると、各々竹矢来で仕切った木戸を設けてあり、常駐の「番所」があったと思われます。
 六口とはどこどこでしょうか。まず城下の東側からみると、北から京口―今の京口町で円成寺門前の道を東へ5~60メートルのところ、それから前島口―これは本町通りの高槻小学校北側、いわゆる一丁田の辻のところ、それと大塚口―八幡町から春日町へ抜ける道の是三寺門前の3つ。南側には大阪口(土橋町から下田部へ抜ける道の城南町1丁目境のところ)があり、西側には北の紺屋町の芥川口(新京町の西端、出屋敷につながるあたり)と南の富田口(高西町から城西橋につながる道の旧湯浅電池のあたり)。これが城下から外へ出る6つの口でした。
 京口は今もなお町名として残っていますが、近世では藩主の参勤交代路として有名なところで、円成寺の東の辻を真北へ、八丁松原を抜けて、別所新町で西国街道に入ります。はるか京へ続く口というわけです。
 城内桜の馬場で終結した参勤の列が、毛槍をふりたてふりたて、京口からゆるゆると松並木に見えかくれしながら西国街道に消える図は、まさに北斎も描きそうな一幅の画柄だったでしょう。そしてこのにぎわいは西国街道の別所新町の成立に結びつきました。
 京から下る旅人は「花の井」の風流に心を動かし、能因塚をはるか右にみて、金龍寺の入相の鐘をききながら高槻の城下に入ったことでしょう。
 今も松並木の名残りは松原公園にあります。

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