現在の位置

古曽部焼のこころ

全国に誇る文化遺産

 近世地窯「古曽部焼」は、高槻が全国に誇りうる文化遺産の一つです。江戸後期18世紀末から明治末年まで百数十年間続いたこの銘陶は、窯が閉ざされて70年を経過していますが、今なお、その跡を懐かしんで訪れる愛好家も少なくありません。
 古曽部焼の作風は初代五十嵐新平から五代目栄次郎まで、少しずつ異なっています。しかしいずれも渋い彩色、流麗・軽妙な画風、お国焼らしい素朴な造形、それに京焼の影響を受けた洒脱な精神が混然一体となり、独特の古曽部焼の境地を形成しました。

初代作 土師鰭写筒茶碗

初代新平が陶窯を開く

 さて、古曽部焼はいつから焼かれたのでしょう。遠州七窯の伝承は別として、焼き物が高名なわりには、確かな史料がありませんでした。新平が京から古曽部村へ帰り、別所村との境界付近で陶窯を開いたのは、彼が40歳の頃と伝わっていますが、古曽部焼研究家の杉本氏が言うように文政12年(1829)、数え年80歳で没した彼の年齢から逆算すると焼き始めは寛政2,3年頃(1790~1)。現在、これが定説となっています。

二代作 鳳凰絵安南写茶碗

幕末から名を上げる

 ところで、古曽部焼は、高槻の誇る作陶芸術だったばかりでなく、幕末この地域で数少ない産業の一つでした。
 特に三代信平(明治15年没)は、明治元年には、当時京都で名をはせた画家田能村直入の自筆画の抹茶々わんを1000個一度に造っています。これは、直入の還暦の祝いの配り物だったそうですが、有能な陶工だった弟弁蔵の助けをかりただけではなく、何人かの弟子職人の存在も推測されます。
 弟弁蔵は、明治37年80余歳で没しますが、そのころはすでに古曽部焼は四代信平の時代。弁蔵は親子二代を補佐したことになります。家業に従事する人々の層の厚さがうかがえます。

三代作 雲鶴三島平茶碗

庶民的な美を創造

明治の中頃、古曽部焼に使う陶土は真上から運ぶのに四斗俵が40銭もかかり、砂気を除くと使える土は三分の一。出来上がりの窯元値段が、茶わん10個一くくりでわずか30銭ですから、かなりの需要を見込まないと成り立たない営業でした。
現存する古曽部焼の中で、珍重される茶器類のほかに火鉢、手あぶり、油つぼ、水差しなどの日用雑器が多くみられるのはこのためで、むしろこれが生産の主流を占めていたのです。このことは、特定の流通路をもたない地焼窯の宿命でしたが、またそれがゆえにこそ、庶民的な美を創造しえたのでもありました。

四代作 尉と姥色絵付茶碗

注文品にくらわんか皿

明治28年3月、伏見芳川長春堂からの注文書には、「海老絵茶漬茶碗百人前、長春堂名煎茶碗弐百個、海老向皿弐百枚」などとあり、大阪高麗橋青霞堂からは、発句ちらしの小皿50枚のためのざれ句を書き連ねた冊子まで送られています。有名な「くらわんか、すわんか月のうつる汁」とある「くらわんか皿」も、こうした料理屋注文の一つだったようです。料理屋「天正」の注文記には、「三島火鉢弐十本」以下、なんと組物を含む2800余点の用器が一括してあがっています。
もう一つ、そのころ東京で外国向け機械標本をつくっていた三省堂からは、「貴店御製造の古曽部焼、弊社販売の日本産陶器見本用として購入致し度く、古来古曽部焼との特色を有せる品、なるべく小形なるもの・・・・・・十銭までの品五十個、二十銭までのもの参拾個至急御送付下されたく」とあります。おそらく額装の標本でしょうが、当時すでに日本製陶を代表する一つとされた位置付けとその即物的な扱い方の間には、現在、ちまたの評価とはまた異質なものを感じざるを得ないのです。

弁蔵作 白釉句入鼓形花器

古曽部焼に二つの顔

 古曽部焼には二つの顔があります。一つは土と火のロマンであり、美といのちの結晶です。そして今一つは、それを造った人々のなりわいで、文字通り汗と脂の結晶でした。私たちはその双方ともを忘れてはいけない、という立場を貫きたいと思うのです。

お問い合わせ先
高槻市 街にぎわい部 文化財課
高槻市役所 総合センター 8階 
電話番号:072-674-7652
ファクス番号:072-674-8836
お問い合わせフォーム(パソコン・スマートフォン用
※内容によっては回答までに日数をいただく場合があります。