40.神服神社と服部


服部村にあり。『延喜式』に出づ。此所の生土神(うぢがみ)とす。
例祭四月八日。『姓氏録』に云ふ服部連は速日命十二世麻羅宿禰の後なり。
允恭帝の御時織部司に任じ、諸国織部を惣領す。
        

 『摂津名所図会』より


神服神社
神服神社
 

 神服(しんぷく)神社は、摂津峡につらなる帯仕山(おびしやま)のすそ野にある服部盆地の最奥に鎮座しています。

 この帯仕山の山すそから山頂にかけての塚脇地区一帯には、約50基もの古墳が群集する塚脇古墳群(古墳時代)が、また、神社の南側には、大蔵司遺跡(弥生時代〜鎌倉時代)がひろがり、このあたり一帯は古くから人々が生活を営んできた地域でもありました。また、江戸時代には、神社の近くを通る道は神峯山寺へと参るために利用されており、神服神社へ立ち寄る人も多かったのではないでしょうか。

 神服神社は、927年に編纂された『延喜式』に記載されている律令時代の神社で、ヒノハヤヒノミコト、マラノスクネ、スサノオノミコトが祀られています。この地は、奈良時代、摂津国島上郡服部郷にあたり、服部連(はっとりのむらじ)の本拠地であったとされています。

 第19代允恭天皇(いんぎょうてんのう)の時代(5世紀前半)に、機織りの織部が各地に多数設置されることとなり、朝廷は管理者をおきました。管理者はやがて「服部(はとりべ)」と呼ばれ、諸国の織部の総領として「服部連」の姓を賜りました。この神服神社のある地域一帯を服部というのは、織部がこの地に設置されたことによります。

 さて神社の名前ですが、服部連は祖先を勧請し、「服部神」と称していましたが、延喜年間に「神服神社」と改称しました。明治時代には、宮之川原の春日神社や稲荷神社、塚脇の上宮神社、浦堂の若宮神社、大蔵司の神明神社を合祀し、現在に至っています。塚脇の上宮神社は、かつて連塚(むらじづか)とよばれる古墳の上にあって、祭神が服部連となっていることから、この塚は同連の墳墓であろうという伝承として息づいています。

 神服神社の例祭の神輿渡御式は、「服部棒振祭」とも「チョーハ祭」とも呼ばれ、昭和初期まで盛大に執り行われてきました。神輿は、笠森神社、阿久刀神社を巡り、総勢100名をこえる行列は周囲を圧倒するものがあったといいます。今は、神輿渡御は行われていませんが、伝えられている神事のみが、5月5日に行われているといいます。


神服神社

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