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高槻市小史

高槻市域には、1万年以上も前、いわゆる旧石器時代から人類の住みついた跡がある。紀元前3世紀ごろには安満に稲作が伝わっており、やがて13~14世紀、鎌倉時代から南北朝期にかけて、摂津国島上郡の中心地に「高月」の地名がおこる。「月」が「槻」に変ったのは、夕日の影が生駒山まで届くという槻(けやき)の大木に因むという伝承がある。

芥川城に拠って京都を支配した細川晴元、三好長慶とその一族、高槻城の祖、入江左近将監春継、キリシタン大名の高山右近などは、戦国の乱世にあってそれぞれ独自の政権を確立した。

江戸時代に入って高槻城が整備・拡大され、慶安2年永井直清が入封すると、城下の町や領域の村々はいっそう発展した。大冠・三箇牧の治水、西国街道芥川宿の経営、富田の酒造や文芸、淀川の三十石船などは、近世高槻地方文化の華であった。

維新の動乱を経て、明治4年7月の廃藩置県によって高槻藩は高槻県と改組、さらに同年11月地方府県の改革統合によって大阪府に編入された。高槻城は同7年に破却され、石垣は翌年敷設された鉄道の橋梁等に使われている。

明治22年4月1日、町村制の施行で高槻村は上田辺村を合併して島上郡高槻村となり、郡内では島本村を除き計10か村が成立した。同29年4月1日には島上郡は島下郡と合併して三島郡となり、同31年10月14日、高槻村は近隣諸村に先がけて町政を施行、大正14年11月には富田村、昭和4年1月には芥川村があいついで町政を施行した。

昭和6年1月1日、三島郡高槻町・芥川町・清水村・磐手村及び大冠村の5町村が合併して新しい高槻町が成立、教育施設の拡充、近代工業の導入、農村産業の育成などを図る一方、同9年9月1日には如是村を合併「田園都市」の基盤を築いた。

太平洋戦争のさなかの昭和18年1月1日、大阪府下9番目の衛星都市として高槻市が誕生した。戦時・戦後の苦難のなか道路・交通・教育・近郊開発整備等、着々と都市的要件を完備させ、昭和23年1月1日には阿武野村、同25年11月1日には五領村を合併し、その後も町村合併促進法に基づき昭和30年4月3日には三箇牧村を、昭和31年9月30日には富田町を合併し、人口は年々増加するに至った。さらに昭和33年4月1日京都府南桑田郡樫田村を合併編入し、現在の市域となった。

昭和30年代後半からは、高度経済成長と歩調を合わせ、本市は大阪市のベッドタウンとしての色彩を強めた。市内各地で宅地開発が進み、田園都市としての姿は一変した。とりわけ昭和40年代には、急激に人口が増加し、昭和44年には20万人を、昭和48年には30万人を突破した。昭和50年代に入ると人口増もようやくストップしたものの、人口急増による学校建設など行政需要が増大し、本市財政は未曾有の財政難に陥った。その後、財政自主再建により赤字を解消しつつ、JR高槻駅前市街地再開発や阪急高架事業などをはじめとした都市整備の基盤づくりに はげみ、大阪・京都のベッドタウンとしての特色を生かしながら発展を続け、平成15年4月1日には中核市に移行した。

また、昭和46年11月2日には島根県匹見町(現在の益田市)と、昭和54年1月25日にはフィリピン・マニラ市と、平成3年11月13日にはオーストラリア・クィーンズランド州トゥーンバ市と、平成5年1月22日には福井県三方町(現在の若狭町)と姉妹都市を、昭和62年3月18日には中国常州市と友好都市を提携し、文化の交流をはかっている。

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