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続日本100名城認定 芥川山城跡

芥川山城跡は三好山(通称城山)にあり、大阪平野を見渡す天然の要害を巧みに利用した戦国時代屈指の城郭です。最高所に主郭を設け、周囲の石垣を配置するなど、その偉容を今に伝えています。永正13年(1516)までに摂津守護の細川高国が築城し、家臣の能勢頼則に城を守らせました。

その後、阿波・徳島から摂津に進出した三好長慶が、主君である細川晴元に替わって、天文22年(1553)に入城。長慶は永禄3年(1560)、長子義興に家督を譲り、河内飯盛城に退隠するまでの約7年間、在城。配下の松永久秀らを重用しつつ、足利将軍家を擁立せずに自らの名前で畿内一円に号令しました。さながら城は政権の首都であり、 長慶が織田信長に先駆けた天下人とされる所以です。

以降、長慶は、眼下の真上村と郡家村の水論(水争い)を裁いたように、地域の人々と向き合う政治に力を注ぎました。堺の商人と交わって連歌や茶の湯に親しみ、キリスト教の布教を認めるなどの教養を示しました。主郭の発掘調査では本格的な建物跡がみつかり、戦国時代の城郭のイメージを一変する成果となっています。

永禄11年(1568)、三好一族を追った織田信長はまずこの城を目指し、天下の形勢を見定めた後に上洛を遂げました。将軍足利義昭の家臣和田惟政が入城するも、翌年には高槻城へと移り、芥川山城は徐々に役割を終えることになりました。

天下人の城 芥川山城跡

芥川山城跡は、摂津峡東側の三好山に位置する戦国時代の山城で、摂津国最大の東西約500メートル、南北約400メートルという規模を誇ります。山裾の三方は芥川が流れる深い峡谷で、敵が攻めにくい天然の城塞でした。山頂を主郭(本丸)に地形の高低差を生かし、人々が生活する曲輪と呼ぶ数多くの広場を山全体に配置しています。

戦国時代の城郭には高い石垣や水堀はなく、山の尾根を断ち切る堀切や土塁(土手)を用いて敵を防ぎました。城跡にはこれらの遺構が良く残り、大手と伝わる谷筋には当時としては珍しい石垣が確認できます。

永正13年(1516)までに摂津国の守護をつとめた細川高国が築城し、工事には昼夜を問わず、300~500人が働いたといいます。続いて高国との戦いに勝利した細川晴元が入城しますが、天文18年(1549)に阿波・徳島から摂津に進出していた家臣の三好長慶によって追放されました。長慶は将軍足利義輝をも京都から追い出し、実力で天下(当時の畿内)の支配を開始します。

そして天文22年(1553)に芥川山城を攻め、自らの居城としました。天下人の居城として、城内には高槻出身とみられる重臣松永久秀らの家臣が屋敷を構え、裁定や対面を求める多くの人々が登城しました。発掘調査では立派な建物跡が見つかっており、多くの生活道具が出土しています。

戦国最初の天下人 三好長慶

三好長慶

三好長慶

天文22年(1553)から永禄3年(1560)の約7年間、三好長慶は芥川山城から畿内(当時の天下)に号令しました。長慶が織田信長に先駆けた天下人とされる所以です。長慶は人材発掘が巧みで、松永久秀らの家臣を権力中枢に登用しました。また、城の眼下の真上村と郡家村の水論(水争い)を裁いたように、地域の人々と向き合う政治に力を注ぎます。堺の商人とも交わって連歌や茶の湯に親しみ、キリスト教を認めるなどの教養人でもありました。

松永久秀

松永久秀

松永久秀は、久しく悪人として語られましたが、事実は長慶の右腕となる忠臣でした。その出自には諸説がありますが、本市の東五百住の出身で高槻城主に連なる土豪層に生まれたとの説が最有力です。

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