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48.大塚切れと洪水記念碑

午后四時頃最高水ナリキ、其間工兵隊ハ鉄舟ヲ出シ、時々巡回シ避難民ヲ送リ出シ、役場連モマタ舟ニテ領飯ノ労ヲ取リ

「上西松太郎参考日誌」より

洪水記念碑

琵琶湖を源とする宇治川と、桂川と木津川をあわせ大阪湾に注ぐ淀川。普段は、高槻市の南辺に沿って穏やかに流れ、沿岸の田畑を潤し、また私たちに貴重な水をもたらしてくれる淀川ですが、時として大自然ゆえの猛威をふるうことがあります。大正6年(1917)10月1日午前8時40分、大塚の堤防が台風による連日の大雨により決壊し、高槻町(現在の高槻市)に甚大な被害をもたらしました。これが世に言う「大塚切れ」です。

 台風がもたらした大量の雨により淀川本流、支流ともに水位が上昇し、1日早朝には番田の芥川堤防が決壊、ほぼ同時に芝生の堤防が290mにわたって決壊しました。さらに、大塚の淀川本流の右岸堤防が大音響を響かせながら、長さ約470mにわたって崩壊しました。

 堤防の決壊によって、まちに流れ出た濁流は渦を巻き、波打って怒涛のごとく流れ込み、大塚堤防辺りの家並み数戸がアッという間に押し流され、午後2時頃には天神山の山際あたりまで浸水し、さらには安満・野田にも及んだことが記録に残っています。


 芝生実行組合史(平成9年発行)には、「工兵隊の兵営もことごとく浸水し営門の頭部だけが僅かに泥水の上にでているだけであった。」(工兵隊営門は現在の城内町城跡公園入り口です。)と記されていることから、水位は2m近くにも達していたことが分かります。  一方、冒頭の日誌によれば、上田辺では、最高水位が床上八尺(約2.6m)にも達していたという記述も残されています。

工兵隊営門

この「大塚切れ」では、淀川の決壊によって流れ込んだ濁流が芥川をも巻き込み、高槻町だけではなく、三箇牧・鳥飼地区へと流れ込みながら、三島郡15町村と西成郡13町村(大塚から淀川沿線河口まで全部)、さらには北河内郡3村にまでおよび、浸水家屋・流失倒壊家屋は15,358戸、罹災人口65,000人、死者2人、負傷者14人、行方不明者6人という大きな被害をもたらしました。

 「大塚切れ」を引きおこした台風は、近畿一帯に大量の雨を降らせながら、和歌山県潮岬沖をかすめて東京湾を通過するコースをたどりました。東京府(現在の東京都)でも高潮が2回も押し寄せて、東京湾の水位が165cmも上昇したといいます。この大災害をもたらした「大塚切れ」は、明治18年(1885)、昭和28年(1953)の台風13号が引きおこした大洪水とともに、淀川三大洪水といわれているもののひとつです。

 これらの水害を教訓に、淀川の改修工事が幾度となく行われました。中でも、昭和15年から17年(1940~42)にかけて行われた1,350mに及ぶ大塚引堤工事は、内陸部へ100mも堤防を移転させるという大工事となり、大塚の約70戸の全戸移住が実施されました。

 このような雨台風による災害の記憶に新しいところでは、平成16年(2004)10月の台風23号による兵庫県豊岡市の円山川の堤防決壊によって、市内の大半が水に浸かった姿を思い起こされる方も多いことでしょう。

 大塚町3丁目の淀川堤防に建てられている「洪水記念碑」は、「大塚切れ」の惨禍を今に伝えるとともに、自然災害に対する警鐘として昭和5年(1930)10月に建立されました。

 今日では、大洪水に対して琵琶湖から大阪湾に至るまでの川沿いのまちに、被害を最小限にくいとめるスーパー堤防づくりなど、さまざまな防災対策が進められています。

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