現在の位置

46.普門寺

『獅林』隠元禅師筆

『獅林(しりん)』
 ※獅林=獅子林(ししりん)の略、禅の修業の場の意

 隠元禅師筆

石畳

高槻市の南西部に位置し、寺内町として栄え多くの寺社が立ち並ぶ富田町の一角に臨済宗・慈雲山普門寺はあります。

表門をくぐり境内に足を踏み入れると、明の高僧隠元(いんげん)禅師が作ったとされる石畳が境内奥の方丈(国重要文化財・昭和52年指定)へと導きます。
方丈から続く敷地の一角には、江戸時代初期の玉淵作と伝えられる枯山水庭園(国名勝・昭和56年指定)が広がっており、境内全体を包む落ち着いた雰囲気は、外界の喧騒を忘れさせてくれます。

方丈

方丈は桁行七間、梁行五間半で入母屋造、桁行方向に三室を梁行方向に二列に配した六間取りで一般的な禅宗方丈の造りをしており、屋根はこけら葺で南面して建っています。東側の一室からは、普門寺の北方に広がる美人山とも呼ばれた阿武山を借景して造られた枯山水庭園を観賞することができます。枯山水庭園は、地形の起伏と要所に配された石を、水面と岸または島等にみたてた、まとまりのよい庭園で江戸時代初期の玉淵作と言われています。

普門寺は、明徳元年(1390)、建長寺蘭渓派の僧、説厳(せつがん)によって開創、永禄年間(1558~1569)には、細川晴元(はるもと)、足利義栄(よしひで)が入山しています。境内地の北端から南端にかけて土塁が残り普門寺城城郭の面影を見てとることができます。境内の一角には細川晴元の墓と伝えられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建ち、遺構の土塁とともに往時を偲ばせています。

その後、普門寺は、元和3年(1617)の龍渓(りゅうけい)の入山によって隆盛を極めることになります。

枯山水庭園

龍渓は、方丈や枯山水庭園の造営などの大事業を成し遂げる一方、当時長崎に滞在中であった明の高僧隠元を普門寺に招きます。隠元は、宇治に黄檗宗の総本山である萬福寺を開創して移るまでの約6年間を普門寺ですごし、その間、普門寺は一時黄檗宗に改宗し、禅寺として大いに栄えました。冒頭で紹介した隠元書「獅林」の大額は、今も方丈の一角にあって、隠元の足跡をたどることができます。

さて、境内の整備や隠元の招聘など普門寺の隆盛に尽力した龍渓ですが、臨済宗妙心寺派龍安寺の末寺であった普門寺の隠元入山後の改宗などをめぐって妙心寺内で対立が生じ、隠元が宇治に移った後、龍渓も普門寺を去っています。龍渓は同じ富田で無住の廃庵であった景瑞庵を、黄檗宗萬福寺の末寺慶瑞寺として再興し、移り住みました。

龍渓、隠元の去った後の普門寺は、再び龍安寺の末寺となりましたが、専任の住職はおかれず、龍安寺の輪番所となっていました。また、明治時代の廃仏毀釈によって寺地や諸堂の多くが失われるなど荒廃の一途をたどりました。

戦後、普門寺は再興され、昭和52年1月には方丈が国の重要文化財に、また昭和56年8月には庭園が国の名勝に指定されるなど、富田の歴史を語る上でも貴重な文化財として保存、公開を図っています。

普門寺の問い合わせ先

普門寺(高槻市富田町4丁目10-10)
電話:072-694-2093


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