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44.高槻藩主・永井直清

八月廿五日早天ニ高月江参着仕、御城請取、
所々御番所被仰付候通請取相勤候(後略)

 「永井直清高槻入部御供の次第写」より

永井直清画像 (京都市東山区 悲田院蔵)

慶安2年(1649)、8月25日の早朝。永井直清(なおきよ)が家臣をひき連れ、藩主として高槻城に入城しました。このとき、直清58歳。冒頭の史料には、直清とともに入城してきた家臣の名前が連なり、ここでは高槻城の請け渡しや、仕事の引継ぎについて記されています。

 高槻藩主、直清は、徳川家康の配下として活躍した永井直勝(なおかつ)の次男として天正19年(1591)に生まれました。幼い頃から徳川秀忠に仕え、元和元年(1615)の大坂の夏の陣でも、活躍しました。


 幕府は、盤石な幕藩体制をより強固なものにするため、寛永10年(1633)京阪間の交通の要所である淀川の両岸にある2つの城に直清と兄・尚政(なおまさ)を配置します。直清は、右岸の勝竜寺城(長岡京市)へ、尚政は左岸の淀城(京都市伏見区)へ移されました。

 これ以後、直清は兄・尚政や京都所司代・板倉重宗らとともに畿内の民政を幕府より任されました。永井兄弟と板倉重宗の参勤には常に注意が払われ、三者が一斉に畿内(現在の京都・大阪・奈良)からはなれることのないよう配慮されていました。さらに直清は京都所司代や大坂城代に何かあったときには、その代行を勤めるなど、幕府の畿内・西国支配において重要な地位を占めていたことがうかがえます。それだけ、譜代大名のなかでも永井家に対する幕府の信頼は篤かったということでしょう。

永井神社

高槻城に入った翌年の慶安3年(1650)、畿内が大洪水に見舞われたため、領内では住民から田畑にあふれた水を排出するための井路(人工水路)開削の声があがりました。直清はこれに応え、番田の井路をはじめ治水に全力を注ぎました。

 また、慶安3年から明暦2年(1656)にかけて、市内の能因法師の墓や伊勢姫の廟堂などを顕彰するために碑を建立しました。碑の銘文は林羅山よるもので、これにより、平安時代の歌人の伝承が後々まで伝え継がれることとなりました。

 寛文11年(1671)、直清は81歳でこの世を去り、菩提寺である京都の泉涌寺内の悲田院に葬られました。直清の高槻在城は23年。以後、13代にわたり明治維新まで、永井家は高槻藩主としてこの地に在りつづけました。

 寛政5年(1793)、藩祖である直清の霊を祭神に勧請するために、永井家九代目藩主・直進(なおのぶ)は、野見神社内に「永井神社」を建てました。永井神社は唐門や拝殿に優れた彫刻装飾がほどこされるなど、江戸時代藩政期の歴史遺産として、また、高槻城の歴史を語る上で貴重な建造物として、平成17年6月に市の有形文化財に指定され、保存が図られています。

関連リンク

伝能因法師墳

永井神社社殿 附棟札4枚・高槻城絵馬1面(準備中)

永井神社唐門(準備中)

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