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43.戦国時代の高槻城主 和田惟政

和田惟政(これまさ)は近江国甲賀郡油日・和田(現滋賀県甲賀市)の土豪で戦国時代に織田信長の配下として活躍し、後に将軍となる足利義昭の上洛などに大いなる役割を果たしました。その功績により、永禄11年(1568)、信長から芥川山城を与えられるとともに、京都の政事にも携わって、信長の京都・摂津支配の要を担うこととなりました。惟政に対する信長の期待の大きさをうかがうことができます。さらに、翌年の永禄12年(1569)には、南北朝以来の名家であり、代々の高槻領主であった入江氏の滅亡により、高槻城が明け渡されたため、惟政は芥川山城・高槻城の2城を預かる身となりました。

伊勢寺にある惟政の墓

惟政は高槻城入城以後、城を入江氏時代の豪族の居館程度の屋敷から、東西一町半(約150m)・南北二町半(約250m)に堀をめぐらす本格的な城郭に拡張。時代を経て、堂々とした天主を備えた近世城郭に発展していく高槻城の基礎を築いた人物として知られています。

 また、キリシタンのよき理解者としても知られています。例えばキリスト教の布教許可を信長に取り次いで得たことや、高槻城内に教会を建てることを宣教師に約束するなどの記録が残っており、キリスト教を積極的に受け入れました。自身がキリシタンであったという記録は残っていませんが、惟政はキリシタン文化の高槻定着の端緒を開いた人物でもありました。

 ところが、このキリシタンを保護する惟政の姿勢は信長側近の反発を受け、信長の命により200人の家臣とともに芥川山城で謹慎の身となってしまいました。しかしながら、惟政はこの禁を破り、自ら京都に出向いて信長に赦免を願い出て、これを認めさせました。武将として惟政の面目躍如たるものがあります。

 その後、信長の権力が強まるにつれて争いが激しくなり、摂津においては石山本願寺との戦いが繰り返されました。幾たびかの戦に出陣した後、高槻城に戻った惟政は、元亀元年(1570) 領主として、大山崎惣中に対し徳政令適用除外を伝えたり、神社に禁制(禁止事項)を掲げて神社を保護するなど、摂津の雄将として名をはせていました。

 しかし、領主としての活躍は長く続かず、信長配下の摂津国衆の内部分裂により、惟政は元亀2年(1571)池田の荒木村重や茨木の中川清秀らと対立し、茨木市北部(耳原)の白井河原の戦いであえなく討たれてしまいます。 また、城主として後を継いだ息子の惟長(これなが)も、元亀4年(1573)家臣であった高山父子に追放され、高槻城主の座はあっという間に高山氏の手にへと移っていきます。

 和田惟政が城主として華々しく高槻城に入城してからわずか4年。戦国という時代の烈しさ、厳しさ、儚さが伝わってきます。 伊勢寺(奥天神町一丁目)境内にある惟政の墓には、今も、参詣の際に立ち寄る人々の姿を見受けることができます。

関連リンク

芥川山城跡

高槻城跡

伊勢寺

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