現在の位置

42.芥川山城

芥川能勢因幡守新城にして祝の心を
うちなひき いつこかのこる 春もなし
宗長

上空からみた芥川山城跡のある三好山

夫婦岩・八丈畳などと称される奇岩や断崖が続く摂津峡は、摂津の耶馬溪ともいわれ、大阪府の名勝にも指定されている景勝地。そのすぐ東側の三好山に天然の要害をもつ芥川山城跡があります。三方を芥川に囲まれ、残る一方は断崖となっており、山そのものが難攻不落の砦となっています。

ここは、三島平野、遠くは生駒山系を臨み、眼下には、西国街道や芥川宿を見通すことができる位置にあり、かつ、亀岡へと続く間道がありました。また、芥川を下ると水上交通の要、淀川に至る立地など、政治上・戦略上において重要な場所でもありました。

芥川山城の遺構は主郭・副郭・土塁・堀切という中世山城の要素を備えており、その様子が今も残っています。

芥川山城は、永正13年(1516)連歌師柴屋軒宗長が芥川の能勢因幡守頼則の築いた新城に祝いの気持ちを込めてつくった冒頭の句から、この時期に完成したものと考えられています。

天文2年(1533)には、細川晴元が入城し、京に移った後、芥川氏が入り、幾度かの城主の入れ替わりののち、天文16年(1547)三好長慶(ながよし)が城を支配。家臣、芥川孫十郎が城主となります。天文22年(1553)長慶は入京を果たしました。しかし、孫十郎が謀反したため、三好山に隣接する帯仕山に陣を構え、開城させて、孫十郎を阿波へ追放して長慶が入りました。

以後、7年間、長慶は山城に在城し、その間、真上・郡家の水争いや、芥川流域の灌漑用水を整備するなど、領地支配にも力を注いだほか、著名な歌人らを招いて連歌の宴を催すなど、文芸を愛した様子もうかがえます。この頃がこの山城の最も華やかで生き生きとした時代であったといえるでしょう。永禄3年(1560)長慶は、飯盛城(四條畷市)に移り、息子義興が城主となりますが、永禄6年(1563)22歳の若さで没します。讃岐石の墓石が建つその墓は、霊松寺(天神町二丁目)にあって「三好のカンカン石」とよばれています。

その後、永禄11年(1568)織田信長の側近、和田惟政(これまさ)が入城、翌年惟政は高槻城も与えられ、2城の主となりました。惟政自身は高槻城へ入り、家臣の高山飛騨守が城主として芥川山城に入ります。以後、政治の拠点はしだいに高槻城へと移っていきます。

多くの武将が入城し、単に北摂の一山城であるということに留まらず、時に最高権力者の拠るところとなり、一時は近畿一円を勢力下とした芥川山城。 やがて、高槻城の発展とともに、歴史の表舞台から姿を消していきました。

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