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41.三好長慶の水論裁決

このたび当所(郡家)と真上申しつむる井手床の事、(中略)
当所理運の旨に任せ、絵図の如く井手を構へ、
用水の便を専らにすべきものなり、仍て状件のごとし。
永禄弐 五月十九日 長慶(花押)郡家惣中

『三好長慶水論裁決状』より

三好奉行衆連判裁許井手絵図

今も昔も、人々が生活するうえで水は欠かせないものです。特に農民にとっては、水は豊かな生活を送るうえで基盤となるものでした。ことわざに「我田引水」という言葉がありますが、人々はより多くの水を自分のものにしようと必死になり、井堰のありようについて争うことがたびたびありました。

 この高槻には、桧尾川・女瀬川・芥川などの川がありますが、特に芥川での灌漑用水の施設である井堰の場所をめぐった水争いの様子についての古文書が残っています。

 「三好長慶水論裁決状及び三好奉行衆連判裁許井手絵図」といわれる文書は、永禄2年(1559)5月、真上・郡家の間で行われた芥川井堰(井手床)をめぐる水争いについて記したもので、争いのおこった場所を示した絵図も残っています。問題となった場所は、真上と郡家の地区境付近を流れる芥川に作られた井堰で、たびたび水争いが行われていたと考えられます。

 室町時代には、惣(そう)といって今でいう自治会のようなものがあり、村々が話し合いをし、もめごとの解決を図っていました。また、惣は在地の武士とともに自主的に灌漑用水の施設の設置・管理を行い、水争いを治めていました。しかし、三好長慶は、その権利を没収し、自らがその裁決を行うことで、自身の地位を確立していくための手段としました。

 長慶は、真上と郡家の水争いにおいて、事実を把握するために役人を現地に遣わして調査させた結果、郡家の村が主張するように、たびたび使用している井堰があることが判明し、郡家側に理があると判決を下しました。

 以後、この井堰をめぐる水争いが起きたときには、郡家方を有利に運ぶための証拠の文書として使われていました。

 この裁決状からは、冒頭の内容のように、長慶の判定が唯一絶対のものとしていることがうかがえます。このことから、惣や在地の武士に問題解決の手段としての自主的な話し合いを放棄させるという、長慶の専制政治のありかたがみてとれます。

 この裁決状は現在も「郡家区有文書」として大切に保管されており、昭和58年11月、「三好長慶水論裁決状及び三好奉行衆連判裁許井手絵図」は、市の有形文化財に指定、保存が図られています。

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三好長慶水論裁決状及び三好家奉行衆連判裁許井手絵図 2巻(準備中)

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