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30.槍術天下一・藤井又一

児 貞臣 書を学んで成らず 去って筑後に游び 加藤先生に従ふ 槍を学び既に三年なり 此を書して以て寄す

毎思阿臣歎復歎  阿臣を思う毎に 歎復た歎

学槍難似学書難  槍を学ぶの難きは 書を学ぶの難きに似たり

一針正直指南勢  一針正直 指南の勢

早令郷人刮目看  早く郷人をして 刮目して看しめよ         

『竹外二十八字詩』後篇より

 

この漢詩は、幕末を生きた高槻の漢詩人・藤井竹外が遠く九州・柳川で槍術を学ぶ息子を想ってよんだものです。息子の名前は貞臣(さだおみ)、通称は又一。

又一は、天保7年(1836)に高槻に生まれました。学問や武芸全般を幼い頃から学んでいましたが、学問はさほど得意ではなかったようです。結局、槍術で身を立てようと決心。嘉永7年(1854)、九州柳河藩の大島流槍術・加藤善右衛門に入門しました。当時、加藤の名前は全国にとどろいており、彼の塾に寄宿していた門弟は、常に70人以上いたといいます。

又一のものと伝えられる槍

又一は加藤の塾を拠点に、九州各地で武者修行して免許皆伝を与えられ、高槻藩に戻って正式に藩士となります。そして数か月後、藩から槍術修行を許され、再び柳河の加藤のもとへ向かいます。このときは四国や中国地方を巡り、文久2年(1862)に高槻に戻ってきました。この間、一度も敗れたことなく、天下一の槍の名手として広く知られ、時の藩主から「父は文学で、その方(又一)は武術で天下に知られ、高槻藩の面目を立てた」と誉められたといいます。

又一のものと伝えられる槍

高槻藩に帰った後、藤井家を継いだ又一は、高槻藩の槍術師範に命じられ、明治維新後は銃卒隊長などを務め、廃藩を迎えました。明治3年(1870)には、有栖川宮に召されて、大島流槍術の指南役を勤めたのですが、わずか1年で職を退き、枚方で畑仕事をしながら暮らしていました。明治17年(1884)、伊丹の修武館建設に当たって、槍術と馬術の師範として招かれ、伊丹の地でこの世を去りました。

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