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24.フロイスのみた高山右近(高槻城主への道)

種々優れた性質を具え、若いにもかかわらず、幾多の輝かしい行為と勇敢な気質によって天下に高名をかち得ていた、父(高山飛騨守)同様に勇敢な侍である息子ジュスト右近(後略)

ルイス・フロイス『日本史』より


戦国時代末期のキリシタン大名であり高槻城主であった高山右近(1552~1615)。多才な人物で、利休七哲の一人に数えられる茶人でもありました。出身は、摂津国高山(現大阪府豊能郡豊能町)と伝えられます。

高山右近像

 冒頭の文章は、ポルトガル人宣教師のルイス・フロイスが描いた高山右近の人物像です。この記事は、元亀2年(1571)、白井河原の合戦で和田惟政(これまさ)が戦死した後、高槻城主となった惟政の長子・惟長(これなが)と高山父子との争いを記したものの一部です。

 これによると、元亀4年(1573)、高槻城の和田惟長を高山父子が襲撃。その戦闘で右近は重傷を負い、惟長も負傷して高槻城から逃亡するも、この負傷がもととなり伏見で死亡しました。


 その様子は「息子(和田惟長)は致命傷のため死んだ。ジュスト右近殿も同様に、腕と頸とに受けた傷からの大量の失血のために、また、頸の傷それ自身が生命にかかわるほどのものであったために、危うく死にそうであった」とフロイスの『日本史』に記されています。フロイスは、この後、右近が瀕死の重傷にもかかわらず助かったのは神のおかげであり、右近の信仰心の賜物であると述べています。

 戦闘の結果、高山父子は、和田一族を高槻城から追放することになりました。この後、右近の父、高山飛騨守ダリヨは高槻城主となり、まもなく息子の右近に城主の座を譲りました。このとき右近21歳、高槻城を拠点にキリスト教の布教に力を注ぐことになるのです。

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